岡田商店が、短期間のうちにこれほどの急成長を遂げ得たのは、ひとつには、教祖の卓抜なデザインの才能によるが、また一面、時代の先端をいくその経営ぶりにおうところも大きかった。
従来の日本の商家では、長らく丁稚制度が守られてきた。無給の丁稚時代を経て、元服(男子が大人になったことを表わす儀式、一二歳から一五、六歳ごろ)をすませ、一七、八歳になって、ようやく手代(番頭と丁稚との間の若者)になって給金がもらえる。それから一〇年くらい勤めて番頭になるが、大店だと、この番頭にも二、三の段階があった。こうして長く勤めあげると、とくに資本と得意先が与えられて独立して、いわゆる暖簾分け(店を出させ、同じ屋号を名乗ることを許す)が行なわれるのであった。
このような伝統の奥にあるものは、古来から日本の社会を構成し、支えてきた「家」の観念であった。主人は奉公人をすべてじつの子供のように扱い、奉公人もまた、主人に対し、じつの親同様に仕えるという風習が長く続いていた。しかし、明治以来の急速な西欧化は、わが国社会の伝統、制度を大きく変えていった。家の観念に基づく、厳格な商家の上下関係も、しだいに変貌する時代を迎えたのである。
大正二、三年(一九一三、四年)のころ、教祖は、こうした社会の動きを的確にとらえ、小間物業界では異例のことであったが、かねてから心に温めていた経営の合理化を実行に移した。
まずその第一は、組織と人事であった。森清之助の進言もあって、それまでとっていた丁稚制度を改め、経理部、庶務部、販売部などを設け、適任者をそれぞれの要職につけるなど、積極的な人材登用をはかった。信頼された人々は、教祖の意を体し、その期待に応えるべく手腕を揮って事業の発展に努力したのである。こうして、同業者からは、
「マルモさんの店(岡田商店)には優秀な人間が多い。よくあれだけそろったものだ。」と、言われるほどになったのである。
人材登用にさいしては、教祖は身内とか、縁故の有無にかかわらず、優れた人材を公平に選ぶというのがその方針であった。岡田商店創立時の協力者、木村金三はその最たるものであったし、後に地方販売部の部長に任命された森清之助も、その能力によって重く用いられた一人である。東京経済大学の前身である大倉高等商業学校で経営学を学んだ森は、販売網を全国に広めることに努め、発展に大きく貢献した人物である。
合理化の第二点は、給与を月給制とし、さらに歩合制を導入したことである。
店月には、各自それぞれの固定給が決められ、そのうえにさらに売り上げの三分にあたる歩合給というものが加算された。ただし、ここでいう売り上げとは現金収入を意味している。普通、売上歩合というと、売りさえすれば歩合がふえるが、肝腎な集金が二の次になりやすいので、そういうことのないように配慮されていたのであった。
固定給だけならば、他の店と比べてそれほどの大差はなかったが、歩合給が上乗せされ、得意先まわりの外勤の者ばかりでなく、店にあって働く内勤の者にも、この歩合制が通用されたので、店員全月の給与は、他の店に比べ、相当に恵まれたものになった。したがって、岡田商店をやめようなどと考えるものは一人もなかった。
たとえば、森の収入は毎月、五〇円の固定給に歩合給を合わせて五〇〇円ほどになった。前にも記した、店員の渡辺は、
「私は大正三年(一九一四年)店にはいりましたが、その時は独身なので毎月三五円でしたが、それからしばらくして月々二、三〇〇円いただくようになりました。当時は夫婦と子供二人なら五、六〇円あれば楽でした。なにしろ、三間か四間の二階家の家賃が月五、六円、ユカタ一枚三五銭、足袋一足一〇銭という時代でしたから。」と、そのころのことを語っている。
後になって、大正一二年(一九二三年)の関東大震災後、木村金三と森清之助は教祖と話し合った結果、それぞれ独立して自分の店を持つこととなる。木村は日本橋浜町に木村工芸株式会社を、森は浅草蔵前に森興芸株式会社を設立したが、その資金はというと、岡田商店時代の給与から蓄えたものであった。
歩合制は、自分の能力や努力に相応して収入があるので、自然と仕事に熱がはいり、店も繁盛するというわけであるが、反面、それだけの厳しさがあった。
木村や森の独立後、番頭になった長島孝は、大正八年(一九一九年)、一五歳の時に店にはいり、翌年から外勤に出たが、年も若く、不慣れだったので、大変苦労をしたという。そのころ、外まわりの仕事をする者は朴歯の下駄を履いていた。歯が減ると取り替えることができたからである。それほど歩いて歩いて歩き通したのである。長島は毎日、店を出て、銀座、芝公園、麻布など東京の南部の小売店を回って品物を届けるのが日課であった。雨の日や雪の日など、つらさが身にしみることもあったが、早く仕事を覚え、力をつけて先輩たちのように一人前の商人になろうと、一生懸命頑張ったのである。
合理化の第三点は、休日や福利厚生など、店員をいかに処遇するかの問題である。教祖は、小間物業界では例の少ない週休制を採用し、おもな店員には週に一度、交替で休日を与えることとした。大正初期のころ、一般の商人は盆と正月を除いて、ほとんど休むということがなかった。定休日というものが生まれたのはずっと後になってからのことである。日曜、祭日に休みをとることができたのは官庁や銀行、大工場などだけであった。このような時代に、週休制を採用したというのは、きわめて新しい在り方である。
大正の初めごろ、教祖はタカの郷里である神奈川県久良岐郡寺前に二〇〇坪(六六〇平方メートル)の土地を借り、平屋建ての別荘を二棟新築した。このあたりは金沢八景といわれて、三浦半島の丘陵地帯を背に、小さな湾を越えて遠く房総半島を望むことのできる景勝の地であった。
教祖はこの景色を愛し、毎年夏になると、ここを訪れた。昼寝のあと、風鈴を見て「旭ダイヤ」のアイデアが浮かんだのも、この別荘でのことだった。教祖はこの美しい環境を自分たち家族だけで一人占めしてしまう気になれず、店員たちにも開放することにした。夏には一週間ずつ交替で、みんなこの別荘にやってきて、寝泊まりしながら海水浴や山歩きを楽しんだのであった。
そればかりではなかった。岡田商店の.店員はもちろん、その知り合いといった人々でも、病人などがあると、この別荘へ連れていって静養させたという。その中には当時不治の病として大変恐れられた結核患者もあり、また、怪我人もあったが、教祖はそういうことは一向意にかいさずに連れてきた。困ったのは世話をする人たちであった。日ごろは喜んで、来る人の世話を引き受けていたタカの母や姉も、それには音をあげてしまったという。
このように教祖は、自分の別荘をできるだけ多くの人々に役に立つように提供したのであるが、これは、岡田商店の今でいう福利厚生施設というべきものであった。週休制にしても、厚生施設にしても、一般の商店や会社が広く実施するようになるのは、それより時代的に後になってからのことである。
経営者として教祖は、大綱は掌握するけれども、部下を信頼してできるだけ任せる、任せたからには細かい口出しはしない、成績をあげた者はどんどん優遇するといった、大らかな采配ぶりだったので、店員は陰日向なく、のびのびと仕事をした。だから店はいつも活気にあふれていたのである。
地方販売部長であった森が販売開拓のために、ある地方へ初めて出張する時のことであった。
教祖は、まずその土地の商工会議所をたずねて老舗を調べ、販売先をその老舗に限定するようにと、いつものように基本方針の指示をした。こうすれば岡田商店の地方の取次店は格式ある老舗ばかりになり、「岡田の商品はどこでも、その町の有名店にしかない上物である。」という意識が消費者の間にできあがるからである。もちろんこうした配慮の裏には、どこの老舗に持ち込んでも、必ず取り引きをするはずだという、自分の開発した製品に対する揺ぎない自信があったことは言うまでもない。
教祖は、このように基本を指示するだけで、細かい注意などはしなかったが、事後の報告だけはやかましく、もし、報告を忘れたりすると、
「報告が終わらないうちは、仕事は終わっていない。きちんとけじめをつけなければいけない。」
と厳しく叱った。
とはいっても、もちろん、細かいことをまったく無視してしまうのではなかった。新入りの店員に向かって、商売のコツ、心構えを直接指導することもよくあった。たとえば、「集金に行って、支払いの悪い小売店で断わられても、けっしてイヤな顔をしてはいけないよ。イヤな顔をすると、反感をもたれるから。今日ご都合がお悪いようでしたら、またうかがいますからって言うようにしなさい。」
と、細々とした注意を与えたし、また、不都合を働いた店員がいても、すぐ短気を起こし首を切ったりせず、よく言って聞かせて改心させ、長くその人間を使うというやり方だった。
教祖はふだん店の奥の部屋にいて、経営上の問題や、デザインについての構想を練ったり、必要な指示を出したりすることはあっても、業者との交際とか折衝、商談などには、ほとんど顔を出すことなく、木村金三に任せていたので、「岡田商店は木村がいっさいを取り仕切っている。」という噂が流れるほどであった。しかし、そこまで信頼されていた木村は、「俺の道薬は商売だ。」と口癖のように言って、店の仕事に打ち込んだ。
卸問屋ともなると、普通は下請けの業者が担当の番頭などに、いわゆる「鼻薬(少額のわいろ〈ヽヽヽ〉)をきかせる」ことがあたりまえになっていたが、岡田商店にはいっさいそんなことはなかった。これは店員の給与のよかったことばかりでなく、三越の仕入係との応対にも、その典型的な姿がうかがえるように、教祖の人柄が店員の間に広く浸透していたことによるものであろう。