御面会

 そのころは、『御面会』といって、月に十日間(資格者の御面会日は毎月一日、一般信者の御面会日は毎月五、六、七、十五、十六、十七、二十五、二十六、二十七日)をそれに当て、咲見町の仮本部に参集した信者に、明主様は、宗教はもちろん、政治や文化、その他いろいろの課題を自由にお取上げになっての、巾広いご教示を授けられるのです。
 
 これも昭和二十七年ごろまでは、信者から文書で質問を提出させ、その質問事項についての回答をいただくという方式で行なわれて来ましたが、ご晩年には、資格者から口頭で質問を受け、それに対して、明主様からの間髪を入れないご回答があるという形になりました。一般信者の質問も、それら資格者が代表して伺うということになったのでした。
 そのころ、あるジャーナリストは、御面会の模様をつぎのように書いています。

 ──二階(咲見町仮本部)へ上がってみて、やっぱり驚いた。 百畳は十分あるだろう。その大広間だけでははいり切れなくて、天幕を張ったバルコニーの上まで、ぎっしり詰まっている老若男女の集団──千人は越えているだろう、と私は思った。

 その人たちはお互いに隣り同志でしゃべったり、笑ったりしている。大入り満員の寄席といった感じで、宗教くさいところなど、どこにもない。

 私は信者ではなく、言わば飛び入りの見物人であるから、隅の方に入れてもらって、小さくなっていた。

 と拡声器から声が流れて来て、“これから朝礼を始めます”と言った。アグラをかいていた男たちは、みんなすわり直した。

 朝礼といっても、きわめて簡単なものであった。
『天津祝詞』というノリトを一同で朗唱し、それから教祖の作った和歌を、これもみんなで朗詠するだけである。

 “いよいよ、教祖のお出ましだな”

 私は固唾をのんで、床の間(そこには教祖自筆の観音画像がかけてある)の右手の入口の方をにらんでいた。

 まもなく、そのふすまがあいて、教祖がツカツカとはいって来た。みんな一度に頭を下げた。教祖は会衆の前を通って、床の間の前の講壇に上がった。

 講壇と言っても、別にたいしたものではない。
一尺ぐらい高いところに丸テーブルが置いてあって、その上にマイクが乗っているだけである。

 教祖はその丸テーブルを前にして、腕椅子に腰を下した。

 最前列にすわった管長は、改めて一礼して、“明主様、今日もよろしくお願い申し上げます”と言った。

 教祖は、黙ってテーブルの上の茶わんのふたをとると、ゴクリと茶をのんだ。

 そして、『“ジャーナリストの考慮を求む”という論文を書いたから、聞いてもらおう』と言った。

 教祖から原稿紙の綴を受取って、側の青年が、教祖のとは別のマイクの前でそれを読み出した──。

 御面会は、午前十一時から約一時間行なわれました。そして奉仕者に朗読させる原稿の内容は、信仰論から美術批評、時事問題などいろいろで、それらの解説もなさることもあり、また、時には、ユーモラスな寸鉄も読ませ、ご自分も信者と一緒になって楽しそうにお笑いになりました。