悪人と申しましても、もとからの悪人ではなく、曇りのために神性が閉<と>ざされて、悪いことをしているにすぎないのです。この曇りを払<はら>って、奥にある神性を抽<ひ>き出してあげれば、もとは神様の分御霊<わけみたま>でありますから、正しいものなのです。したがって、どんな悪人にしろ、肚の底から憎<にく>んではいけないのです。根本的な愛情を人間はひとしくもちあわねばなりません。
たとえば、自分に都合<つごう>の悪いこと、また、自分に敵対する人も、神様のご意志によって、自分のそばにきているのだという理解<りかい>になりますと、“ああ、この人は自分を磨<みが>いて、自分を向上させてくれる結構な砥石<といし>として、いまここにあるのだ”と神様に感謝<かんしや>でき、全部自分に触<ふ>れるものはありがたくなります。また、そういう気であれば、必ずいつかそれが、相手に通ずるのです。もちろん、すぐには通じなくても、あの人は暖かいところがあったというようなことが、必ず後日<ごじつ>わかるのです。
かように、どんな人からも好<す>かれるような人間にならないと、お道の信者とはいえないと思うのです。向<む>こうが悪いから、こちらも憎んでやろう、というのでは、神様の弟子でもなんでもないのです。肚の底から、ほんとうの好意をもちあうのが、神様の子としての役目なのです。