弟子を救う

 戦後間もない頃のこととして伝わっている有名な話である。繚斎の秘書役を務め、のちに教団常任理事となった大西秀吉が、宝山荘で心臓発作を起こしたことがあった。この話は總斎の長男嘉丸の書いた「父の憶い出」に詳しいので以下に掲げる。

 昭和二十一、二年頃の玉川・宝山荘で起こったことである。当時大西氏は喘息の持病があり、年に一、二度ぐらいはその発作が起きた。発作が起きると一週間から長いと一ヵ月ぐらいは寝込むのである。この時も発作のため寝込んで、父のお供ができなかった時であった。

 父は毎月各幹部諸氏の希望に合わせて出向計画を作り、それに基づき全国を布教して巡るのである。ちょうどその時はすべての予定を終わり帰途についたが、その途中で明主様から連絡を受け、予定を変更して東京に帰らず直接熱海に行ったのであった。

 その留守中に浄化で寝込んでいた大西氏が父の帰宅予定の日に、突然強い心臓発作を起こしたのである。その当時は「五六七<みろく>会」の幹部の先生方は、前述のようにそれぞれ自分の布教受持ち地域があり、その月の父の出向予定に合わせて布教活動をしていたが、月末には当時の本部である宝山荘に帰るのであって、この時も予定行事を完了して父より先に帰ってきていたため、幹部の方々が大西氏の発作にご浄霊を取り次いでいたのである。幹部の浄霊により、同氏の浄化は一時平静になっていたが、その日の夕方からまた病状が悪化してきた。

 しかし、父が今日中に熱海から帰るので、父の帰宅を待って浄霊をいただければ大丈夫と思っていたのである。ところが、父は明主様との話が長引き、熱海に泊まらざるを得なくなった。その変更の連絡を受けたのはその日も遅くなってからである。電話を受けた留守担当の幹部はその電話口で大西氏の病状を伝えるべきか迷ったが、父の予定変更は明主様の御用である。もし病状を伝えたことで父が心配し御用に支障があってはいけない。

 また現在の病状では帰られるまで大丈夫、帰ってから報告すればよいととっさに判断して、大西氏のことは伝えずに電話を切ったのである。そして数名の幹部の方が徹夜でご浄霊を取り次がれた。その夜の宝山荘は大西氏の病状を気遣い、息苦しいような雰囲気であった。ところが翌朝を迎えても病状は好転せず、もはやこれ以上放っておけない状態となった。すぐに父に連絡し、指示を仰ぐべく熱海に電話を申し込んだのであるが、戦後の電話事情は今日では考えられないぐらい悪く、都内以外の通話は申込み制である。熱海や箱根など遅いときには、二、三時間待たされるのは当たり前であった。

 やっと熱海の東山荘に電話が通じた時は、父はすでに明主様の御用を終え、東京へ向かった後であった。熱海を出発した時間が判れば当然宝山荘に帰る時間が判る。さっそく駅へ奉仕者を迎えに出した。しかし、予定の時間になっても父の一行は駅に姿を現さなかったのである。宝山荘では幹部の先生方が必死になって浄霊を取り次いでいるが、すでに顔も土気色になり、瀕死の重態となった。この時の様子を『明主様と先達の人々』では「苦痛はひどく顔面蒼白、呼吸困難、文字通り七転八倒の苦しみが続き『もう危ないから奥さんを呼ぼう』」と記述されている。

 病室の中で浄霊をしておられた方は、その手を止めて、「医者を呼ばなくてはいけない」「奥さんはまだ来ないのか」と口々に言うような深刻な雰囲気に包まれていた。熱海の東山荘から、父は他に廻る予定であるということの連絡を受けたが、肝心の行き先が判らない。それでも交替で駅まで出迎えて父の帰るのを待っていた。宝山荘のご神前では、奉仕者や多くの信徒の方も一緒になってご守護のお祈りをしていた。しかしながら容態はさらに悪化し、誰がみても危篤の状態となった。宝山荘内では息をすることも、大きな声でしゃべることも遠慮しなければならないような張り詰めた雰囲気であった。

 その時である。駅に出迎えていた若い奉仕者が息を切らして「先生のお帰り!」と張り詰めた空気を破るように、そして宝山荘中に響き渡る大きな声で父の帰りを告げたのである。父は何か胸騒ぎを感じ予定を早めて帰ったそうである。駅で出迎えの奉仕者から大西氏の容態を聞き、普通なら駅から宝山荘まで四、五分かけて歩く距離をあの大きな体でわずか一、二分で宝山荘の玄関に駆け込み、そのまま一足飛びに大西氏の病室に入り浄霊を始めたのである。

 父の後から宝山荘の中にいるほとんどすべての人が部屋にまでついてきて、父の行なう浄霊を見守ったのである。周囲の人びとは父が靴のままご浄霊していることはまったく気がつかない。ただご浄霊する父の姿と、大西氏の顔を見比べるばかりであった。そしてわずか二、三分の間に、あれほど苦しみ、死相が現れていた顔に赤みがさし、短く激しい息づかいがおだやかに変わり、そしてさらに数分のご浄霊を続けているうちに平常に近い顔色と息づかいに戻ったのである。本人の口から、
「楽になりました」
 という言葉が出た。ご浄霊の挨拶をするつもりか、起き上がろうとした。父は、
「無理をしなくてもよい」
 と言いながら、浄霊の手を止め大西氏の体を軽く押さえた。周囲で固唾をのんで見守っていた人びとも安堵の息を吐き、同氏の浄化中にかかわらず礼儀正しい姿に感心しながら、
「よかった、よかった」
 とみな口々に言い、手を握り合っていた。若い女の子などは目に涙を浮かべて頷きあっていた。父は側にいた人に新聞紙を持ってこさせて泥が畳に落ちぬように靴を脱いだ。その時初めて周囲の人びとは、父が靴のまま部屋に駆け込んだことを知ったのである。
「あと二、三分遅れていたら危なかった」
 と父はポツリと漏らした。周囲で見守っていた人は安堵と同時に靴のまま駆け込んだ姿に感動をし、人を救うということの重大なことを、それぞれに噛みしめていたように思えた。廊下についた靴跡を何か大事なもののような思いで若い奉仕者が拭いていたのを印象深く記憶している。少しでも早く大西氏のご浄霊をしなければという思いが無意識のうちに靴を脱がずそのまま病室に行かせたのではないか。普通の状態では、たとえ親の死に目にもどんな事態でも靴のまま部屋に入ることはできないと思うのである。いかに大西氏の容態を心配したかが判ると思う。

 そうしてひとまず大西氏の病状は落ち着き、父はまた後から来ると言い残して自分の居間に向かった。一緒についてきた幹部諸氏に、 
「こんなことでは教修をもう一度最初からやり直さなければならないようだな」 
 と笑いながら話をしていた。それからしばらくして隣室から、「俺たちの浄霊は駄目なのであろうか」「弟子は師の半ばに至らずだ」、また「所詮先生は特別で、我々とは違う」 
 と言う話し声が、今後の反省の言として聞こえてきたのを今でも憶えている。

 その夜、父は二回にわたって大西氏のご浄霊に部屋まで行ったのである。浄化中の病人の一番辛いのは夜中であろう。隣で奥さん、また付添いの人が寝入っている。しかし、自分は眠れない。この時が辛く腹立たしいのである。父はその夜、辛いと思われる真夜中と、明け方の二度にわたりご浄霊に行ったのである。部屋に入ると大西氏はびっくりして、隣に寝ている奥さんを起こそうとしたが、父は、
「そのまま、そのまま」
 と言いながら、大西氏のご浄霊を始めたそうである。この夜ご浄霊をいただいたことは、当の大西氏と父以外に誰も知らない。翌日奥さんは大西氏からこのことを聞かされた。
「夫から渋井先生が真夜中にご浄霊に見えられた話を聞かされたときは、本当に恥ずかしく、それこそ穴があったら入りたい思いでした。先生がお見えになったことにまったく気づかず寝込んでいた私は、自分自身が情けなく申し訳ないという思いでいっぱいでした。しかし、妻の私ですら夜中に起きてご浄霊を取り次ぐことに気がつかぬのに全国を回られ、しかも前夜明主様とのお話で徹夜までされて、お疲れになっておられたのに、二度までご浄霊に部屋まで来ていただいて……」
 と絶句きれ、二十数年前の出来事が眼の前に現れたように涙ながらに話されたのであった。

 大西氏は翌日起きて浄霊をいただくまでに恢復し、数日後は全快され、宝山荘は平常の状態に戻った。

 後に大西氏はその時の様子を奥さんに、
「浄化中の苦しい時も意識はハッキリしていて、みなの喋っている言葉はよく判った。『今度は駄目だ』『これは助からない』など、勝手なことを言っているなぁ……と思いながらやはり今度は死ぬのかと思った。そして長く苦しかった意識が、だんだんぼやけていくうちに苦しみが少し薄れて、ああ死ぬのだな……と思っていた。先生のお帰り! という声が遠くで聞こえ、ああ先生が帰ってこられた、と思ったとたんに助かった、救われたという思いと同時に意識がハッキリと戻った。あとはみなの知っている通りである」 
 と語られ、いまさらご浄霊の有り難さ、その浄霊力の強さと父の気遣いと思いやりに涙していたという。

 鞄も脱がず浄化中の人を気遣う温かさ、また師の浄霊を絶対と信じきる信頼が、失いかけた生命を起らせ、そしてその信仰情熱が布教活動へとつながるのではないか。
「渋井先生に対する信頼は絶対でありました。このように信じられる師を持つ幸せはないと感じておりました。もし夫婦でもこのように信じられたらどんなに幸せかとも思いました。余人の立ち入ることのできない、それは尊いというか何とも表現できないことと思いました」 

 最後に懐かしそうに語ってくださった、その当時が今思い出される。