弟子の派遣

 地方布教は、この見えない糸をいかに全国に張り巡らせるかということである。このことに總斎は腐心した。

 今日までの世界救世教の発展史を考える場合、明主様の教え、浄霊の素晴らしさが、いかにして全国の各地に伝えられていったかを考察することなしに済ませるわけにはゆかない。

 全国の帝市、地域の拠点となる所を中心として広がった教勢は、今日の世界救世教の“教団”の骨格を造っている。この地方発展史はとりもなおさず世界救世教の歴史であり、これを繙<ひもと>くことは全国各地へ明主様の存在とみ教えがどのように広がっていったかを知り、明主様及び先達の当時の活躍の跡を追うことでもある。

 明主棟及び教団の先達は、教団草創当時にたいへんな苦労をして今日の世界救世教を磐石なものとした。しかし苦労はあっても、明主様の教えに従った者たちはそれぞれの胸のうちに明主様への“熱い想い”を抱いていたのだ。この“熱い想い”が、明主様のみ教えを“伝えたい”という想いに駆らせたのである。そして苦労を苦労とも思わずに、それこそ寝食を忘れて布教に打ち込んでいった。当時の教団の先達の後に続く現在の私たちは、その時の苦労の歴史を決して忘れてはならない。したがって私たちは、總斎の地方布教の足跡を追うことによって、今日の教団の成り立ちと世界救世教の発展史を学ぶと同時に、總斎の“熱い想い”から教えを受けることができるであろう。 さて、總斎は世界救世教の発展史のなかで最も活躍し、最も苦労し、そして最も明主様から信頼された弟子であった。

 總斎は戦前から積極的に地方布教を展開しており、明主様のご面会日以外、新宿・角筈での浄霊のほか地方への開拓布教に励んでいたのだが、汽車の切符の入手が困難になった戦時下であっても続いていた。ところが汽車の乗り降りも窓からというような超満員の列車でも、總斎の乗る車両だけは不思議と空いていることが多かった。總斎はたいへん厚い霊衣に包まれている。だから電車がどんなに混んでいようとも、周囲一尺(約三十センチ)ほどは人も近づけず空間ができてしまうのであるという話が当時信徒の間で語られていた。終戦間もない頃、岐阜・美濃町へ大西秀吉を伴い講習に出かけた帰りの話である。

 この当時の電車はいつでも大混雑の状態であった。總斎と大西が満員電車に辛うじて乗り込んだのだが、もちろん座ることなどできない。ところが押し合いへし合いの電車の中で總斎の周囲には空間ができてしまうのである。周囲の乗客も意識してそうしているわけではないのだが、誰一人として總斎に近づくことができないのである。見送りに出た小川哲生は、この不思議な光景を目の当たりにし、總斎の霊衣の話を思い出したという。

 新宿の角筈に治療所を構えている頃には夜まで浄霊を行ない、それから東京近県に出張浄霊に出向き、翌朝早く新宿に戻るのだが、そこにはすでに多くの人びとが總斎の浄霊を待っているので休む時間もほとんどない。總斎はまさに超人的な過密スケジュールをこなしていた。しかし、このような苦労話を探っていくと、むしろこのような難行を神の御用として楽しんでいるかのような總斎の姿が浮かんでくる。

 もっとも總斎がどんなに凄まじいスケジュールをこなしていたとしても、身一つですべての地域を回り切れるものではない。次第に總斎の弟子が代理として出向くことになる。戦後になると、代理として岩松栄や大西秀吉、大久保政治、稲葉啓行など、幹部に任すようになった。このことには總斎も最初から気がついていて、いろいろ手を打っている。例えば、第二次大戦中の強制疎開を機に、自身の弟子たちのうち何人かを生まれ故郷に帰るように指示している。總斎は自分の弟子たちが全国各地に布教所を設け、そこを拠点として地方布教をすることを考えていたのだ。

 明主様のみ教えがいまだ広がっていない地方を開拓するには、戦争という試練の時は逆に千載一遇の機会である。それを本教の地方発展のきっかけとした總斎の深い考えには感服せざるを得ない。今日の世界救世教の地方布教の重要な拠点は、この時期の總斎と、その弟子であった多くの先達たちの苦労によって築き上げたものである。事実、のちに世界救世教の管長となった弟子の一人、渡辺勝市は總斎の勧めに従って“お道の未開の地”であり、渡辺の郷里である岐阜に近い名古屋を最初の布教の拠点と定めたと述べている。

 しかし、地方布教はたやすいことではない。選ばれて布教の最前線に立たされることになった總斎の弟子たちにとっては、それは生半可な決意ではなかったであろう。例えば渡辺勝市は昭和十八年十一月から名古屋で布教を始めているが、この頃はまだ空襲もさほどひどくはなく、また国民の戦意も高かった。渡辺にとっては、苦労して東京で成功し、商売もまだまだこれからという時である。渡辺自身、
「事業を棄ててお道に専念するということは、生活の保障を失うこと」
 であり、また、
「世間一般からは、浄霊は按摩の変わり種といった程度の認識と評価しか受けられない」ために「近親者はじめ大方の激しい反対を受けた」
 にもかかわらず、商売をたたみ信仰に生きる決意をした。この時の心情を渡辺は、
「これほどに素晴らしいお道のことに専念してみて、それで食えなくなるのなら、それでもいいのではないかと思った」
 と語っている。この心情は、總斎が初めて明主様に出会って、それまでの事業をかなぐり捨てこの道に生きる決意をした時と共通じている。

 總斎は、岩松、渡辺ら、時に信頼のおける教え子たちにこの地方布教という試練を与えたと思われる。その試練を特に試練とも感じなかった弟子たちは、十分にその期待に応えたということができよう。この初期の地方布教の歴史を追うにつれ、自身の明主様への“熱い想い”に忠実に生きようとした總斎という師と、それに応えようとした弟子たちとの固い絆が教団の礎となったことが見てとれるのである。

 この地方に派遣された弟子たちとは別に、總斎の許にあって布教を支えた人びともいる。

 主に宝山荘時代以降のことであるが、百海聖一は總斎が布教のため地方出張が多かったため、宝山荘の留守番役となった。總斎にとって信頼のおける弟子の一人だったといってよいだろう。百海は總斎が宝山荘不在時のとりまとめ役として貢献したのだが、一方、浄霊の代行として活躍したのが長尾磐根であった。

 この二人が車の両輪として、總斎不在の宝山荘を支えていたのである。また、大西秀吉は總斎の秘書役として總斎と共に全国各地への布教に随行した。これら多くの弟子たちが總斎と共に教団を支えた人たちなのであった。