伝導も伊都能売の行で

 ある教会にあった話ですが、その教会の信者さん(奥さん)で、ご主人は信仰には理解<りかい>がなかったのですが、奥さんは熱心に信仰され、神様も奉斎<ほうさい>され、教会の月次祭<つきなみさい>にも参<まい>られるというふうに、とにかく、いままで何ごともなかったのでした。

 ところが、ある日真<ま>っ青<さお>になって教会にこられたのでわけを尋<たず>ねますと、実は先生大変なことが持ちあがったというのです。家に帰ったところが、主人が座敷<ざしき>の真<ま>ん中<なか>に目を怒<いか>らしており、床の掛けものはひきちぎつてあり、何もかも大乱雑<だいらんざつ>です。そして、きょうかぎりおまえが信仰を止<や>めればよし、それでなければ別<わか>れよう。これからお前の信頼<しんらい>している教会へいって、教会長に相談<そうだん>してこい。なんというか返事次第では、教会へもあばれていくとのこと。

 そこで教会長は、まず神様にお詫<わ>びして、さて考えますに、これは怒<おこ>ってはいかん。先方は信仰がないのだから、奥さんも熱心はよいが、熱心のあまり、ついご主人への心づかいが疎<おろそ>かになり、いろいろと不満足が重<かさ>なってのことかもしれない。そうすると、奥さんにも手落<てお>ちがある。ここで、そんなことをする人とは別れなさいと言えば、ご主人はおそらく終生<しゆうせい>この教えに敵意を持ち、救われないだろう。まず、奥さんがお詫びして帰ることだと気づかしていただいて、「奥さん、ここはあなたにも手落ちがあったと思うから、どこまでもご主人にあやまって、ご主人のいうことを聞いてあげなさい。ご主人が許してくれるまで神様もお巻<ま>きして、「おひかり」もご無礼<ぶれい>のないように、箱へなり入れてしまっておき、ご主人に真心をつくしなさい。きっとよいようにしてくださるから」と返事したそうです。

 奥さんが帰っていくと、まだすごい見幕<けんまく>で、教会長はなんと言ったと尋ねるので、「かくかく」とのことを伝えると、まったく意外も意外という顔で、フーンと言ったきり、しばらく腕組<うでぐ>みをしていられ、「これは不思議だ。してみると救世教という教えは、私の想像<そうぞう>していたのとだいぶ違うようだ。てっきりそんな主人とは別れてしまえ、と言うと思っていたが、聞けば聞くほど立派なことを言うが」と、だいぶご主人の旗色<はたいろ>が変わってきたそうです。そして、ともかくいわれたとおりを実行して、思いきり仕えたところ、少し経ったある日、ご主人の方から「おひかり」をかけてもいいよと言われたそうです。奥さんは嬉<うれ>しくなって、ますます神妙<しんみよう>に仕えられると、こんどは、教会のお祭にもいっていいよといわれたそうです。いまでは完全な理解者になっていられるとのことで、私はこの話を聞いたとき、信仰はこれでよいのだと思ったのでした。全部がこんなケースで成功するとは思いませんが、この人の場合はこれでよかった、ということがいえるわけです。奥さんが熱心だったから、その場合の解決策<かいけつさく>としての叡智<えいち>が授かったわけで、やはり、神様のお導きがあって守られたのだと思いました。

 これは伊都能売<いずのめ>の行に叶<ぎようかな>っているのです。伊都能売行とは、相手を救っていただくためには、自分がご無礼の罪を背負<せお>ってもよい。泥水<どろみず>の中に落ちた人を救うには、泥水の中に浸<ひた>って、その人を岸へ押しあげねばならぬこともあります。また、岸から手を伸ばして救える場合にはそうする。同じお救いでも、その場その場で方法はいろいろあると思います。そこが叡智であって、叡智は神様からくるものであります。