昭和九年(一九三四年)九月一五日を期して、新たな道を歩み始めた教祖は、神の経綸により、世の中に向かって神示の教えを獅子吼(ひるむことなく正道を堂々と述べ伝えること)するべき時が目前に迫っていることを感得した。そして、まだごく限られた人数ではあったが、献身的な奉仕を捧げる信者の赤誠に支えられ、開教をめざして余念のない日々を送っていたのである。
昭和元年(一九二六年)の神の啓示によって、光明世界、天国世界の到来を知り、地上における神の代行者として、その予言を実現するのがほかならぬ自分であることを覚った教祖は、この地上に天国を建設する遂行者としてさまざまな研鑚を積み、来たるべき日のために備えたのであった。とりわけ昭和六年(一九三一年)、鋸山〈のこぎりやま〉における夜昼転換の啓示によって、今日という時代が、夜の世から昼の世への転回点にほかならないことを知らされて以来、立教への決意は固く、揺ぎない決定的なものとして教祖の胸中深く秘められてきたのであった。
その啓示によって明らかにされた夜昼の転換とは、人類の活動いっさいを含む文化全体のうえに大変革が行なわれることを意味する。すなわち、この大いなる時にあたって、今日までの物質文化偏重の文明から、精神文化主導の新文明へと大転換がなされることを明示したものである。
今日、人類社会は多くの問題に直面している。すなわち、さまざまな分野で多くの進歩が見られながら、そのことが必ずしも人類の幸せに結び付いてはいない。これは明らかに矛盾である。この矛盾の生じた原因は、今日の人類が、霊界の存在をないがしろにし、神の教えを忘れて人間本位の気ままな歩みを続けてきているからにほかならない。この誤った歩みは、なんとしても正されなければならない。現代文明はみずからのかかえている矛盾によって行き詰まり、崩壊して、その弥果てに神示に基づく新たな文明が創造されようとしている。その転換が今やまさに始まろうとしているのである。教祖は、まぎれもなくその遂行者としての使命感に燃え、世に救いの光をもたらす者こそ我なりとの自負と歓喜に胸をふくらませ、昭和一〇年(一九三五年)一月一日、東京麹町〈こうじまち〉において「大日本観音会」を創立し、広く世に立教を宣言したのであった。
教祖は極東日本に出生の縁を得ている。一冬の夜の長さは時来って昼にその座を譲り、ふたたび陽光に輝く昼が長くなり始める。冬至はその転換の日である。その翌日、太陽の甦える日にこの世に生をうけた教祖は、神の示す計らいのままに、東京の一角に観音の救いの第一歩を印したのである。教祖は、誕生以来の自分の運命の不可思議さと、みずからに課せられた「東方の光」としての使命に思いをめぐらして、その感慨深い心境を歌に詠んでいる。
世を救ふ神の器に選まれしわが身の運命つくづく思ふも
天ケ下大神光〈したおおみひかり〉に隈もなく浄めます時いよよ来にける
「東方の光」とは、地中海沿岸の或る一部地域において、古代から流布していた救世主出現の予言の中に出てくる言葉であって、日出づるところから遣わされてくる「平和の君」によって人々が救われる、その救世主を呼ぶ名が「東方の光」であった。これが「東方の光」という言葉が歴史の上に記録され、登場してくる始まりであるとされている。
教祖はこの予言にある「東」とは極東の日本を意味し、「光」は観音の光であり、その
「光の主」こそ、自分自身にほかならないという自覚に立ったのである。教祖は宗教の世界にはいるまでの歩みの中に、みずからの確信を裏付ける神秘な符合を見出して、後年、
「東方の光というのは私の事なのです。それは色々ありますが、一番はっきりしている事は世界の東が日本です。極東と言いますから、東には間違ないのです。日本の東は東京なのです。東の京としてあるのですから東に違いありません。東京の東は浅草です。浅草の東は橋場という所です。私は橋場という所で生まれたのです。橋場で生まれまして、それから転々として西へ西へと斯うして来たのです。」*
と述べている。
*教祖の住居が浅草から京橋を経て大森へと至り、その後さらに玉川、そして箱根、熱海、京都と西進した歩みをいう
このように教祖の生涯は、ちょうど太陽が東から昇り西に向かって進んでいくように、光に象徴され、光に包まれ、光に導かれての歩みであったが、今ここに真理の光、観音の光を掲〈かか〉げて立ち上がったのである。