投書による策謀は、昭和二四年(一九四九年)八月のC・I・D(進駐軍犯罪捜査課。なお、進駐軍とは、終戦後日本に駐留したアメリカ軍を中心とする連合軍。先の占領軍に同じ)による教団施設の家宅捜索となって現われた。
八月二五日午後九時ごろのこと、教祖は早雲寮で揮毫をしていた。すると不意に外で銃声が響いたので、側近の者が玄関に出てみると、進駐軍の制服を着た者が数人、ピストルを構え、土足で上がり込んできた。
まったく突然のことで、何も理由のわからないうちに、教祖とよ志は観山亭(神仙郷内の建物。昭和二一年・一九四六年八月竣工)へ連れて行かれ、残りの者は早雲寮に集められた。それから天井をはがし庭石を起こして、金属探知機による徹底的な捜索が行なわれた。後になってわかったことであるが、この事件は教団が金塊、白金、ダイヤモンドなど貴金属を隠匿しているという、進駐軍宛の投書に基づくものであった。しかし、徹底した捜索にもかかわらず、そのようなものは何一つ発見されなかった。それどころか、事もあろうに、彼らが引き上げてから、いくつかの美術品とよ志の身のまわり品、数点が紛失していることが判明したのである。
教祖はその後二か月ほどしてから、C・I・Dの司令官に対し、丁重ながら断固たる調子で、その件の調査を依頼している。
この紛失物は、結局、行方不明のままに終わってしまったが、当時、絶対的な権力をもっていた進駐軍を向こうに回して、誤りに対してはいささかも妥協せず、筋を通していく教祖の姿には、反骨の精神躍如たるものがある。
一か月ほどした九月二一日、そのころ進駐軍の機関紙であった『日本トリビューン』という日刊紙につぎのような記事が掲載された。
「日本観音教団についてはさる一月以来脱税問題、政治献金、政治活動、教団資金面などについて触ぷ規正令適用の立場から調査中であったが、他の宗教団体からの中傷などもあり、新聞や投書などで世間が騒ぐほどでないことがわかった。調査対象のいずれもが根拠薄弱なため、調査を打切ったわけである。
浄霊による療法、無肥料栽培などで反社会性ということも問題になるが、これは規正令のワク外でもあり、信者が高い理解をもっていればこれを問題にすることはできない。」
この記事は好意的な内容のものではあったが、また同時に、教団の教義と、それに基づく諸活動が社会からとかく批判の対象とされていたことをも物語っている。
財政上の問題に加えて、誤解と中傷の対象となったのは浄霊と自然農法である。今日でこそようやく、唯物科学的な世界観の限界と破綻が問題とされ、大自然の調和や力に対して素直に目が向けられ始めているが、当時は、技術革新が大いに進められていく時代にあたっていたから、人知の可能性が謳歌されていたのである。したがって科学的に証明できないものは、頭から迷信として排斥されたのである。
農業にしても、戦前から使われ始めていた化学肥料が、ますます多用された。農薬では、D・D・TやB・H・Cが大量に散布されたが、これらは後に人体への害が問題となって製造中止になったのである。しかし当時、肥料も農薬も、その毒性はまだ表面化せず、効用ばかりが高く評価されていた。社会は肥料や農薬の盲信にとっぷりとつかりきっていたのである。そのような考え方が圧倒的な時代の風潮の中で、自然農法が受けた非難、嘲笑の激しさは、計り知れないものがあった。
このような情勢の中、かつて、大蔵省による調査の時、教団の依頼によって交渉にあたった二人の弁護士間に争いが起こり、昭和二四年(一九四九年)二月、こともあろうに訴訟事件にまで発展した。初めは協力していた二人であったが、そのうちに感情的な齟齬(食い違い)が生じて、それが弁護士に渡される手数料をめぐる誤解となり、ついに一方が、告訴という強硬手段に訴える事態に立ちいたったのである。
ところがこの訴訟は某新聞の知るところとなり、一一月二〇日の朝刊に大々的に報道された。
「観音教財閥の大脱税?
揉消しに四百五十万
弁護人が分け前で提訴騒ぎ」
という大見出しのもとに、脱税容疑の捜索から、落着にいたる経緯が、ひどく歪曲されて掲載されたのである。以来、各紙による教団誹謗は一段と激しさを加えた。一二月一四日に出た記事にいたっては針小棒大もはなはだしく、事実無根の中傷が含まれていた。教祖は一二月三一日、機関紙の『光』四二号紙上において、この新聞論調に徹底した反論を載せ、真正面から受けて立ったのである。
新聞倫理に反す○○紙
「本教団の飛躍的な発展とともに〝大樹に風〟のたとえ、これをねたむ者、何らかの為にせんとする者によって色々な中傷ざんぶ<*>が目立ってきた。特に天下の大新聞と自他ともに許している○○新聞社が本教団再三の反ばくにも関らず、またまた十四日付の紙面に意識的としか思えぬ悪意に満ちた記事を大々的に報じている。われらは内容の余りに虚構なのに唖然たるを禁じ得ぬと同時に公器たる新聞がかゝる態度をとることの及ぼす影響の大なるを考え、次に本数団及び関係被害者とされた宗<そう>市長<**>の抗議文を○○社に送ると共にこゝに本紙上にのせ深く反省を求めるとともに真実を伝えることにする。」
* 事実を曲げ、またいつわって他人をあしざまに言い、その名誉を傷つけること
** 当時の熱海市長・宗秋月
検察当局では、かねてから誹謗の投書のため、教団に対して疑心暗鬼をいだいていた。そこへ二四年(一九四九年)の八月、C・I、Dによる家宅捜索があった。これは空振りに終わったが、そのあとすぐ同年一一月、弁護士の提訴事件が持ち上がるに及んで、ますます疑念を強め、いよいよ教団の内偵を始めたのである。