信徒が低い段階にある間は教団の浄化は治まらない事
教団の浄化にしましても一向に治まらないという事も考えてみれば、まだまだ私達が低い段階にあるという証で、本当に恥ずかしいと思わなければならないと思うのです。戦争の対立を嘆く前に、自分自身の心を嘆かねばならない人類でありま …
正神の側に立てる自己を確立すべき事
こうした大きなご神業が始まれば始まるほど、それに抵抗する邪神の働きは強いのであります。その邪神というものは、振り払えば、またどこへ乗っかろうかと、虎視眈々(こしたんたん)と狙っているのであります。私達でもちょっと油断を …
浄化の真相を見つめる眼を持たねばならぬ事
ここで全てすっかり真相解明というような事態にせざるを得ないようになってきましたという事、これはやはり、見方を変えればより有難い浄化でもございまして、このように惟神(かんながら)に状況が動いてきましたという事、それは背後 …
浄化あればこその向上である事
本当に浄化あればこその向上です。苦難あればこその新生でございます。また、長老の岩松相談役もよく言われてます、蟹も脱皮する時には懸命だそうです。苦しみをいとわずに、自分はこれでよしとする我を脱ぎ捨てて、もう一度柔らかな心 …
積極性と陽気さで乗り切る事
日本でも神話には、天照大神様が岩戸に隠れられた時に、天鈿女命(あめのうずめのみこと)のおかしな裸の踊りによって湧き上がった神々の笑い声にひかされて、思わず扉の外にお出になったという事がございます。やっぱり笑いというもの …
本教は経綸の宗教である事
本教は経綸の宗教でございますね。 節々に発揚される神様のご意図を着実に受け止めてこそ前進が許されます。
三代様の経綸について
常々、土の経綸という事を私は申しております。土の経綸という事は、これは土に種を下ろしていくという事であります。二代様、明主様の事を思い出しますと。明主様は梅の花、二代様は松、玉松とおっしゃっておられましたが、梅の花も松 …
教主中心は浄霊中心であると話された事の意味について
教主中心といいますから明主様中心とまぎらわしくなると、それで明主様の一番望まれた事は何であろうか。それは浄霊によるお救いであると、そこで明主様に直結した教主中心という事は、すなわち浄霊中心なのですという事を申し上げたわ …
宗教行為主義でなければ明主様の御神徳は体得出来ない事
明主様のお言葉を聞かせて頂く、拝読させて頂くという事では、頭の世界、本当の力にはならないわけです。 この間も申しあげましたように、生活の場で実行し、体験の世界の中で受け止めてこそ、初めて本当に分からせて頂ける事だと思 …
受け身の信仰は燃える力を失わせてしまう事
十年間組織中心の上意下遠の中で培った受け身の信仰は、自分自身から燃える力というものを失わせて、感動心は冷え枯れてきてしまったというような状態はなかったでしょうか。燃えない体質になり切ってしまったのではないでしょうか。信 …