機関紙の刊行
昭和一〇年(一九三五年)一月、「大日本観音会」が発足して以来、多忙な日を送っていた教祖は、新教団の誕生とともに機関紙として定期の新聞と雑誌を刊行した。東方の光を掲げて光明世界建設のために立ち上がった神命にちなんで、新聞 …
自観荘進出
立教後の教線の発展は目覚ましいものがあった。すでに触れたように、発会式の参拝者は一五〇名ほどであったが、それから四か月後の五月一日、教祖は立教後初めての春季大祭を挙行したのである。この時の参拝者は二百余人を数え、仮本部 …
『日本医術講義録』発刊と講習
教祖は、「大日本観音会」という宗教的な名前で発足し活動を開始したが、応神堂に進出して以来続けてきた治病法、すなわち、岡田式神霊指圧療法の施術にみずからあたり、神霊による癒しの業としてそれを積極的に進めていた。しかもその …
お守りの揮毫
白紙へ墨もて書きし文字さへも光を放つ観音力かも 一つ一つの文字の力に世の人の生命を救う奇しき神業 すでに記したように昭和一〇年(一九三五年)五月五日を期して浄霊は教祖が紙片に書いた文字を介して行なわれることにな …
観音講座
教祖は「大日本観音会」を立教し、この地上に天国を創造しようと神命のままに立ち上がったが、この理想を実現するにあたってその両輪となるものは、神与の救済力と、神から知らされた真理であると確信していた。そして神与の救済力を、 …
新本部の発足
昭和一〇年(一九三五年)一月、麹町仮本部で立教した「大日本観音会」は日に日に躍進し、 数か月もたつころには、もう仮本部の建物が手狭になるほどであった。そこで、本部にふさわしい土地、建物を物色することとなった。その最終的 …
社会の注目
発会式から一週間後の昭和一〇年(一九三五年)一〇月一七日の『日記』に、 地崎なる人訪ね来て北海道定山渓の神体享けたり とある。地崎は名を字三郎と言い、当時、北海道小樽市で「小樽定山渓自動車道株式会社」という会社の …
「大日本健康協会」発会
昭和一一年(一九三六年)二月二六日、東京地方は三〇年ぶりの大雪であった。その朝早く、二二人の青年将校に率いられた下士官と兵、合わせて千四百余名が政府要人を急襲し、内大臣・斎藤実、大蔵大臣・高橋是清、教育総監・渡辺錠太郎 …
「大日本観音会」解散と療術禁止令
はたせるかな、「大日本健康協会」の発会後間もなく、官憲の干渉が強化された。教祖の『日記』には、六月三〇日に特高警察の島という人物が来たと記録されている。 警察当局が何よりも懸念していたのは、まだ小さな組織ながら急速に …
大宮事件
禁止命令を受けてから一週間後の昭和一一年(一九三六年)八月四日のこと、これまた突然、埼玉県の大宮警察署から呼び出し状が釆た。当時、大宮市内には「大日本観音会」の大宮支部があり、武井良英が支部長を勤めていた。市内には千余 …