応神堂開設
昭和九年(一九三四年)五月一日、教祖はそれまで住居にしていた大森の松風荘に妻・よ志と六人の子供を残し、麹町区平河町一丁目二番地四(現在の千代田区平河町一丁目四番地)に家を借り、応神堂と名付けて救世の活動を始めた。応神堂 …
千手観音像
昭和九年(一九三四年)九月一五日、教祖は千手観音の画像を描くようにとの神示を受けた。さっそく構想を練り、構図の下絵作りに取りかかった。そしてこの観音画像は、いずれ新教団の神体とすべきものであると考えて、幅五尺(一・五メ …
善言讃詞
昭和九年(一九三四年)一二月四日、立教への準備が進められるさなか、岡庭真次郎のもとへ教祖から、 「『観音経』を持って応神堂へ来るように。」 という内容の電話がはいった。岡庭はさっそく、『観音経』(法華経二八品〈ほ …
規約作成
昭和九年(一九三四年)も押し詰まるにつれて、「大日本観音会」発会の機運はしだいに高まってきた。一一月二五日、大森の松風荘で秋季大祭が開かれたが、その時教祖は、 「昭和一〇年(一九三五年)一月一日を期し、大日本観音会と …
仮発会式
昭和九年(一九三四年)一二月二三日、この日は皇太子・継宮明仁親王の満一歳の誕生日というめでたい日であるが、また、教祖五二回目の誕生日であり、さらに、「大日本観音会」の仮発会式が応神堂において行なわれた記念の日でもある。 …
草創期の先達
昭和一〇年(一九三五年)元旦の、「大日本観音会」の発会は、教団の原点とされている大きな節である。ここにいたるまでの昭和の最初の九年は、神業の草創期であり、後の教団の基礎が固められた大切な時であった。このころは、もちろん …
無私の精神、身をもって示した御用
「笊で水を汲んでみよ」 禅問答のような明主様のこのお言葉は、このご面会の数日前に教団最高幹部が集まった席で発せられた。居合わせた幹部たちはいかに明主様のお言葉とはいえ、とうてい無理な話で、いずれ何らかの説明があるもの …
美術品購入の御用
明主様は美術品購入にはとても熱心であった。資金不足で思うようにいかずお困りの時もあったようであるが、どうしても入手したい名品を美術商が持参すると結局購入することを決意された。名品、逸品の海外流失を防ぎ、美術愛好家だけで …
献金
昭和二十四年までのことである。この頃、宝山荘では、地方からの献金を計算するのは、たいへんな手間のかかる御用の一つであった。 「五六七会」の幹部が毎月末日に宝山荘に集まって、それぞれ地方開拓をしてきた結果を總斎に報告し …
教団施設の整備
總斎は明主様がご希望される土地の購入はすべてしている。昭和二十三年、明主様が碧雲荘を入手された時の費用も總斎が都合した。久彌宮の別邸であったが、当時、購入代金は七百万円であった。この時は、契約時から一週間以内に現金で購 …