宗教は救いの一部
ある日明主様に、「いまの社会を見ていると、明主様のお力をもってしても、宗教だけで完全に社会を浄化できるとは思えませんが」とお伺いすると、明主様は、『宗教だけで、世界の人類すべてを救えるものではない。宗教というものは、放 …
『始まればバタバタときまる』
昭和二十五年の法難で、一時教勢がしぼんだことがありますが、それはいわゆる散花結実で、明主様は、『私もそれを神様から知らされたよ』とおっしゃっていました。 そういう情勢にある時でした。私は、明主様に、「私はきわめて近い …
“無条件降伏”これでいいのだ
昭和二十年八月十五日、終戦の日、私は箱根の御面会で、五十人ほどの人と一緒にお伺いしていました。 重大放送があるというので、『みんな聞くように』との明主様のお言葉もあって、正午、全員がラジオの前にすわりました。 明主 …
持っていても使わなければ
明主様はよく日刊新聞などで、宗教論評をしている筆者の、ものの見方なんかが間違っている記事をごらんになると、『それに適するような論文の載っている栄光新聞を送ってやれ』といわれますが、「ハイ、かしこまりました」と返事をいた …
『特別扱いはいやだ』
申しわけないことながら、朝のご挨拶にまごまごしておりますと、『あんたは私を特別な人間に考えるからなんだ。普通の人間だと思ったら、朝、顔を合わせた時“おはよう”と挨拶するのが常識だと思うがね。特別扱いされるのが実は嫌なん …
起きたらまっさきに私に挨拶を
昭和二十五年ごろ、私はまだ「おひかり」をいただいておらず、ある会社に通っていましたが、土曜日から箱根へ行って、明主様の所へ一晩泊めていただくことがよくありました。 そして翌日、つい寝坊をしてしまい、洗顔もそこそこに出 …
挨拶は何度でもよい
私が御奉仕に上がらせていただきましたころのことです。 明主様がある朝、お寝巻姿で廊下をお通りになられました時、ちょうどお会いいたしましたので、すぐに、「おはようございます」と申し上げればよかったのですが、とっさに、失礼 …
神にある身の苦楽
元旦には、われわれ側近の奉仕者には、ゆっくりと正月気分を味わわせていただけましたが、明主様ご自身はお部屋に閉じ籠られ、出来るだけ私たちには手数がかからないようにと、お原稿などの整理を黙念となさっておられました。 そし …
春秋庵の霊的意義
昭和二十六年の春、明主様は初めて関西地方にご巡教になられましたが、その時はまだ公会堂などの公共施設が借りられなくて、東山の法然院というお寺で、関西地方の信者にご講話をなさいました。 その日、まず嵯峨の釈迦堂に行かれま …
一を聞いて十を悟る
昔、大本教のお筆先について、『あれもすぐわかることなんだよ。きみにはわからないかもしれないがね』と明主様はおっしゃって、『そのお筆先に“唐土の鳥が飛んで来て、日本の鳥は蹴飛ばされるぞ。足もとに火がつくぞ”というのがある …