明月をとってくれろと
昭和二十三年か四年か忘れましたが、東京銀座七丁目の黒田陶苑の画廊で「色紙短冊展」が開かれ、私も一茶の短冊を出品しましたが、その展覧会場で初めて岡田さんにお会いしました。 私の出した短冊は、“名月をとってくれろと泣く子 …
朝まだき石けり給えば
昭和十四年の暮でした。当時私は東京中野のある小学校の教師をしておりましたが、生徒の父兄で高橋という会社の社長をやっている人がいて、その人から、岡田という人が変わった療法をしていることを聞きました。 それで私も好奇心か …
いつもおひかりに満ちて
初めて明主様にお目にかかった時、とてもキサクなお方であられたのに、びっくりいたしました。 明主様はお偉い方だということは聞いておりましたが、お目にかかって、ちっとも飾り気のない、あるがままを言っていらっしゃる方で、初 …
異数の江戸っ子教祖
戦後まもなく、教祖が吉住慈恭さんの家を見にいらして、バカに気にいって、『だれが設計したんだ』ということで、それがきっかけで、私は教祖のお宅に出入りするようになりましたした。ですから、私を教祖に引き合わせたもとは吉任さん …
生活の中の教え
教祖さんは、情けの深い方でした。 私が伺うと、『これを持って行け』とお土産を下さり、『風呂へはいってゆけ』『食事してゆけ』と、ご自分で直接おっしゃらない時でも、二代様にそうお命じになる方でした。 教祖さんは、特にお …
立派な救貧事業
岡田教祖に最初会ったのは、強羅ホテルで開かれた箱根美術館の開館祝賀会の時で、教祖は美術館をつくったいきさつを話され、その中で、『……救貧事業をやらねばならないが、この美術館をつくったことは救富事業になってしまった……』 …
ごまかしのない人
教祖にお目にかかったのは、熱海大火のすぐあとでしたから、たしか昭和二十五年ごろでした。 立派なお宅で、日本づくりの広い家でしたが、熱海のどのへんでしたか、よく覚えていません。応接間のようなところでお会いしたのですが、 …
教祖らしくない教祖
私の教祖に対する印象は、いつも同じで、裏表のない、正直な、庶民救済と地上天国実現を悲願とする大理想をもっていられる方らしく、常に天真らんまんで、教祖らしくない教祖であり、その純真な人柄はまことに尊いと思います。 とに …
まさに快刀乱麻
私が初めて教祖にお目にかかったのは、戦後、それもまだ世の中が落ちつかないころでした。はっきりおぼえていませんが、なんでも熱海の広いお座敷で、教祖と私のほかに幹部や信徒の人がすわっていました。 その人たちが、教祖にいろ …
人情の機微を応用
そのころ(大正三年~大正十二年)、私は岡田商店の店員でしたが、なにしろ同業者との競争が激しくて、よその店にない製品をどんどん考案して売るというのが、親父(明主様)の商法でした。 ですから、親父は、いろいろな雑誌を取り …