第2章 教団草創期の渋井總斎

出会い

 二、三日ほど前から、東京は天気がよいぶん冷え込みが厳しく、昼を過ぎても気温が上がらなかった。その日の朝は、いくらか冷え込みは緩んだのだが、午後からどんよりとした雲がかかっていたことを彼は憶えている。再度明主様のお屋敷に …

母の浄化が契機に

 渋井總斎の母せいは腰痛に悩んでいたが、あちこちの病院、治療所を訪ねても一向によくならず、友人の紹介で「岡田式指圧療法」中野支部の中島一斎の治療を受けていた。どこへ行っても治癒せず、半ばあきらめていたのだが、「岡田式指圧 …

總斎の修行

 總斎自身もこれまでに多くの霊的修行を積み重ねてきていた。だからこそ、明主様の偉大なご神格をたちどころに見抜くことができたのである。  總斎は宝山荘に明主様を訪ねる以前、信仰を求めて解脱会に入会していた。解脱会とは、昭和 …

入信

 その後、總斎は約一ヵ月ほど宝山荘を訪れることはなかった。この間、總斎が何を考え、何をしていたのか伝えられてはいない。しかし、總斎は残された人生のすべてをこの道に、そして明主様に捧げ尽くすことを決めていた。たぶん、總斎は …

出生、そして家族のこと

 總斎・渋井總三郎は明治十九年三月二十二日、埼玉県北埼玉郡村君村字名、現在の埼玉県羽生市大字名において、父倉次郎、母せいの四男としてこの世に生を受けた。四男として生まれたにもかかわらず「總三郎」と名づけられた理由は、兄が …

海外渡航・日本放浪

明治末から大正初めにかけて、海外に行くことは、たいへん困難なことである。資産家や政府の高官ならいざ知らず、一般の庶民にとってはまったく実現不可能な夢であった。その夢を總斎は実現したのである。  總斎はまず、当時の状況で海 …

總斎の霊能と先見性

“この人は大きい”という言葉があるが、その意味するところはいろいろとある。この言葉以外、總斎を評することはできない。多くの人たちに渋井總斎の思い出、印象などを聞くと、大抵の人は「大きな温かい方でした」と答える。たしかに気 …

御用のための桐の板。金欄の購入

 ある日、桐の板が四トントラック一台、總斎の留守中に届いた。買った経緯はまったく聞いていないから、受け取るほうも困り、相手と押し問答となったが、間違いなく渋井家宛である。しかし、置く場所がない。すでに店は廃業していたので …

「大内会」の結成

 昭和十五年十一月二十八日、明主様が医師法違反の容疑で玉川署に呼ばれ、三日間にわたって勾留されるという事件が起こった。これが第二次玉川事件である。この時に明主様は、昭和十五年十二月をもって、それまでの療術行為から身を退か …

明主様とのご旅行

 昭和十六年になると、この会食会も開催場所は東京だけではなく、明主様ご夫妻を日本各地への旅行にご招待し、神社仏閣や名所旧蹟あるいは景勝地を訪ね、その地の文化、芸術を楽しみながら明主様のご指導を仰ぐという形式に変わってきた …