仏界の救い(三)

 なにしろ、いろいろな坊さんにしろ、とにかく、悪い事をした人ではないので、仏の慈悲を取り次いだ人達ですから。これは、助けてやらなければなりません。

 それからもう一つは、各寺にいろいろな仏像がありますから、その仏像それぞれに、みんな、霊界で修行を積んだ、名僧知識の人の霊が憑っているのです。しかし憑っていると言ったところで、観音、釈迦、阿彌陀といろいろありますが、たとえてみれば、お釈迦さん、阿彌陀さん、観音様、聖徳太子・・・・は観音様になるわけです。それから普賢菩薩、文殊菩薩といろいろありますが、そういうように、信仰に熱心な、要するに霊的に修行した坊さん達が、それに憑られるのです。そうして守護されるのです。

 ですから立派な彫刻には、みんなそういう霊がはいっているのです。そこで今までは、そういう仏像や仏画を、美術品扱いにされたわけですが、それは非常に苦しいのです。だからその霊を抜かなければいけないのです。(中略)

 そこでそれについて今、いろいろな高僧名僧の、何上人とか、何大師とか、何禅師という人達が、とてもあせっているのです。これは「地上天国」に多賀夫人の神憑りで書いてありますが、そういうような具合で、そこでそういう仏様も、元は神様であったので、それが夜の世界の間、仏に化現するのです。そうして救われるのです。

 ところが今度、「仏滅」になると、元の神様になるのです。これからは神様として働けるので、仏様としては働けないのです。

 というのは。仏の本元は、月の神様で、月読尊(つきよみのみこと)という神様です。これは素盞嗚尊(すさのおのみこと)の表になるのです。月は、照った時と、闇の時とありますが、照ったときが月読尊という名前になり、隠れた時が素盞鳴尊になるのです。

 それで仏は月読尊の系統ですから、月になるわけです。そこで昼になると、月は消えますから、そこでどうしても、神様の方にはいらなければ、働けないのです。そこで早く神様に還りたいのです。

 ところがどうしても、今まで仏界で救いをされた仏達は、穢れがあるのです。穢れがあるという事は、仏の教えというものは、本当の教えでないから、一方に、慈悲で人を助けた手柄もある代わり、一方、人を誤らせた事も大いにあるのです。その誤らせた罪を、神様にとって貰わなければならないのです。

 そこでそれを、″私に浄めて貰う、浄霊して貰うべく″急いでいるのです。そこで京都、奈良にある仏像の霊を救ってやるのです。そうして神様の方の仲間と言ってはおかしいが、神様の方のグループにはいって、大いに働くというわけです。

 そうすると、あと仏像はカラッポになりますから、今度は美術品として、それを作った芸術家の手柄を、大いに輝かせるわけです。それで芸術によって多くの人を楽しませる、という事によって、今度は、それを作った芸術家が、大いに喜ぶというわけです。そういう意味の仕事を、京都の嵯峨でやるつもりなのです。それであっちに行ってからすぐやるわけではないのですが。今でも、そういった仏像仏画が、自然に私の所にはいっているのだから、ボツボツやっているわけですが、京都に行ってから、本格的にやるわけです。

 それでつまり今が″仏滅から神世、神の世界になる″移り変わりという″時″になるのです。

 ですから、その移り変わりの時の「救い」です。そうしなければ、人類を救う事は出来ないのです。

 結局霊的には、そういった神仏という人が支配しているのですから、仏教を救って、次にキリスト教を救わなければならないのです。キリスト教なども、その弟子の偉い人というのは、歴史的にも沢山ありますから、そういう人達も救わなければならないのです。それからマホメットと、この三大宗教です。

 それを霊的に救って、それから本当に人間が救われるというので、これが順序で、神様はそういうような順序でやられるわけです。

 ですから今度あっちに行ったのは、その第一歩というわけなのです。こういう事は今までの宗教では全然説いてありませんが、説かなかったという事は、時期が、こういう時に行ってなくて、やはり仏教で救ったりする時期ですから、仕方がなかったのです。

 私は、″今の移り変りの境い目の仕事をする″ためだから、そういう事が言えるわけです。

「御教え集第21一号」 昭和28年4月17日

御教え集