總斎は「日本浄化療法普及会」「日本観音教団」「日本五六七教」、そして「世界メシヤ教」と続く教団の成長とともに、教団の責任者として忙しい日々を送っていた。組織の名称や形態は変わっても、明主様の御用をさせていただくという姿勢は決して変わるものではなかったし、また總斎の御用への熱意、日常の生活も変わるものでもなかった。時間に余裕があれば地方からの要請に応えて講習に出向くし、また弟子たちの教会の発展にも気をつかった。そして、税務当局の査察に対しても心を配っていた。
總斎は無理をしているつもりは決してなかった。あるがままに、自分が必要とされているところへ足を運んだだけである。とはいえ、口に出して言うことは決してなかったものの、總斎はかなりの疲れを感じていた。少し休息をとりたいと考えたこともなくはなかったが、事情がそれを許さなかったのである。
しかし、昭和二十四年の暮れ、總斎はついに過労が原因で脳溢血に倒れた。この時は明主様の浄霊で一命を取りとめた。この浄化を明主様はたいへん心配され、次の歌を總斎に贈り見舞った。
打ちしのぶこころはいとも尊けれ 大御心にそうよきみちなれば
しかし、これは三度目の発作だったのである。普通の人間なら三度目では助からないのだが、總斎は違っていた。これからがさらにたいへんな御用が始まるのである。總斎はそのことを無意識に感じていた。だからこそ、この危機を脱することができたのである。
總斎はしばらく静養をとった。その間、身を挺しての御用はできなくなるが、たとえ病床にあっても總斎にしかできない御用があったのである。
戦後になって、明主様を中心として教団はめざましい発展をとげた。戦前、療術行為からいったん身を退かれるかたちで、より高い御神業の段階に入られた明主様がいよいよ表舞台にお出になり、御神業の完成を目指して活動を開始されたのである。わずか三年あまりの間に「日本浄化療法普及会」の成功、それに続く「日本観音教団」「日本五六七教」、そして今回の「世界メシヤ教」創立が実現されたが、今まさに、教団の拡大、および地上天国建設の偉業が軌道に乗り始めた時、また新たな試練がその前に立ちふさがった。
「世界メシヤ教」という教団の新体制が出発して二ヵ月後の昭和二十五年四月三日、熱海を大火が襲った。熱海駅近くの仲見世、商店街から火を出し九十四軒を焼失した。さらにその十日後の四月十三日、先の大火を上回る空前の大火事が熱海を、そして「世界救世教」を襲った。
海岸の埋め立て工事現場から、夕方五時すぎに上がった火の手は、海からの風にあおられてみるみる市街地に燃え広がった。火が町をなめるように横断し、天神山の麓で鎮火したのはすでに十二時をまわった頃であったから、七時間もの間、猛火が街を襲い続けたのである。焼失した家屋は九百七十九棟にも及んだ。
この大火の中、清水町の仮本部はすぐに猛火に呑み込まれるかの観があった。火の粉が舞う中を、仮本部からは御神体や明主様の御書などが運び出されたが、仮本部に火の手が及ぶことはもう誰の目にも明らかであった。奉仕者たちはリレーで水を運び、火の手が及びそうな所に水をかけていくのだが、まさに焼け石に水の如く、火勢の強さにすぐ乾き切ってしまう。
明主様は一度清水町にお出ましになり、火に向かって浄霊をされた。その後は碧雲荘におられたのだが、清水町仮本部へ火の手がいよいよ及んだことをお聞きになっても、「焼けない。仮本部だけは焼け残るだろう」
と確信を持っておっしゃる。
今まさに清水町では、仮本部に火が燃え移らんとした時であった。にわかに風向きが変わり、それまで仮本部めがけて伸びていた炎が、じりじりと後退しはじめたのである。明主様の予言どおり、まさに仮本部だけは焼け残ったのであった。しかし残念なことに隣接する光新聞社出張所は焼け落ちてしまった。だが、この時、『光』新聞の一面に掲載された明主様のお写真だけは焼け残っていた。