教祖はとりわけ芸術家を大切にした・。そして、芸術家や芸能人が職業柄とはいえ、民衆を楽しませようとしているので有難い。とくに優れた芸術家には頭の下がる思いがするので、できるだけ会いたい、と幾たびか語っている。
毎日、それこそ分刻みで次々と仕事を処理していた教祖である。いきなり、しかもドテラ姿で来た人に面接することなどはちょっと考えられないことであるが、谷口がすばらしい映画を作って楽しませてくれる〝芸術家″であるからこそ、もちろん、会いたいと申し入れ、心からの歓待をしたのである。映画監督に心づかいをするばかりでなく、教祖はまた、映画を作ることにも協力している。
同じ昭和二四年(一九四九年)のこと、松竹映画で「結婚指輪(エンゲージ・リング)」という映画を作ることになった。監督は木下恵介、主演は三船敏郎と田中絹代の二人であったが、主役二人の逢引の場として、碧雲荘のすぐ下にある旅館・水口園が選ばれて、主人公が外車で乗り付ける場面を撮影することになった。たまたま当時、教祖はアメリカのデソートという自動車を使っていたので、「ぜひ車をお借りしたい。」という申し込みが松竹からきた。もちろん、教祖は喜んでその申し込みに応じたのであった。
教祖が優遇した芸術家の一人、歌舞伎俳優の二代目・市川猿之助(後に猿翁と改名)は、教祖を箱根へたずねたおり、日光殿で、教祖と一緒に映画を見た思い出をつぎのように記している。
「『夜、信者に映画を見せるけど、君、一緒に見ないか。』
と明主様が言われるので、ご一緒に日光殿の広間へ行って映画を見ました。
ところが、その映画は、丹羽文雄原作の『蛇と鳩』というもので、宗教を悪く解剖したものなのです。しかも、救世教を風刺しているような映画なのです。それを信者に見せるのですから、私はびっくりしました。けれども、明主様は大きな口をあけて笑っていらっしゃるのです。
『これはおもしろい、これはおもしろい。』
とおっしゃって……。その大きさに私は非常にうたれました。普通だったら、人情のうえから言っても、救世教を風刺したような映画なら、信者に見せないと思うのですが、明主様は、
『君、こんな見方もあるんだよ。』
とじつに泰然としておられるのです。それが誇張したものではなく、真情からのものなんです。それで私は〝大きいな〟と感心したのでした。」
教祖夫妻と、とくに親交のあった長唄の四代目・吉住小三郎(後に慈恭と改名)は、熱海市内に住んでいた関係もあり、映画を上映するたびにいつも招待され、教祖と並んで観賞したのであった。
昭和二八年(一九五三年)ごろのある夜、大映の映画「獅子の座」(監督・伊藤大輔、主演・長谷川一夫)が上映されることになった。これは「能」を修得する若者の姿を通して、修行の厳しさを描いたもので、頭の上に水のはいった重い桶を乗せ、歩き方の稽古をする場面などがあった。あらかじめカタログを見てこれを知った教祖は、すぐ吉住の所へ使いをやって、
「今夜の『獅子の座』という映画はかくかくの作品なので、きっと長唄の修行にも参考になるでしょうから、ぜひご覧ください。」
と、とくに案内をしたので、吉住は教祖の心配りを感謝し、喜んで出帝したのであった。
箱根、熱海で盛んに造営が進められていたころ、教祖は奉仕者の慰労を兼ねて、夜、一日置きに映画を上映した。あらかじめフィルムを用意し、専門の技師を頼んで上映したのである。
ある時、熱海の映画館で上映中の「赤い靴」という映画のフィルムを借りたことがあった。この映画は数巻のフィルムに分かれていて、一本が終わると順次、続きのフィルムを映していく。そこで映画館で映し終わったものから車に積んで箱根へ運び、上映したのである。ところが、この日は途中、十国峠に濃い霧がかかり、車が進めなくなってフィルムの到着が遅れ、結局、映画が終了したのは夜中の二時になった。映写機を回していた技師は、途中で中止になるかと思ったが、教祖がやめるように言わないので、とうとう終わりまで映した。教祖は時間のあいた時には、いったん部屋に帰って仕事をし、上映が始まる時間になると日光殿に戻って映画を見た。奉仕者たちはみな、昼間の疲れから、根負けしてその場にごろ寝して眠ってしまったが、教祖は一人目を覚まして最後まで見続けたのである。映画が心底好きで、しかも一度始めたら途中でやめることの嫌いな教祖の人柄を生き生きと伝える逸話である。
映画に関連してつぎのようなこともあった。昭和二八年(一九五三年)の夏ごろ、ある映画雑誌社が、各方面に葉書を配り、アンケートを求めた。その一枚が教祖の所へも送られてきた。おそらくその雑誌社は、教祖が大の映画ファンということを知っていたのであろう。
葉書には何項目かの質問事項が並んでおり、その中に「あなたの好きな女優の名」という項目があった。教祖はみずからペンを執って、そこへ、当時非常に人気のあった淡島千景という女優の名前を記入し、
「こんなものを宗教家に送ってくる方もくる方だが、返事を書いて出す方も出す方だ。」
と言って朗らかに笑ったのであった。
教祖は聖地の建設が始まると、若いころからいだいていた映画製作への情熱をもって、三本の映画を作った。うち二本は、箱根、熱海の聖地の様子を映した「大建設」と「天国の苑」、いま一本は、真善美の天国世界建設という本数の理想を表現する「東方の光」という映画である。
「大建設」が撮影されたのは、救世会館の敷地造りが盛んに行なわれていた、昭和二七年(一九五二年)二月から三週間の間のことである。鶴嘴やシャベルをふるい、トロッコで土を運ぶ奉仕隊員の生き生きとした作業の様子が映し出され、視察にあたる教祖の姿もおさめられている。
また、同じころ作られた「天国の苑」は、神仙郷の庭園美と、これを取り巻く箱根外輪山の自然美を映し、また完成なった箱根美術館の内部や開館披露の様子を紹介している。その中で、教祖みずから、真善美の理想世界の雛型を造った理由を語るとともに、さらに、日本美術を招介するために箱根美術館を建設したという意図を述べているのである。
「東方の光」は、昭和二八年(一九五三年)世界救世〈メシヤ〉教の監修のもとに、木村プロダクションの手によって撮影が開始された。当時、一般にはまだ非常に珍しかったカラーフィルムをアメリカから輸入して用い、また創作舞踊家として著名な石井漠を起用して、教祖の説く教義を象徴的に表現するなど、意欲的な映画作りをめざしている。担当者たちは、カラーの撮影を手がけるのは初めてであったので、することなすこと、とまどうことが多かった。また当時のカラーフィルムは、今日に比べ非常に感度が低かったので、屋内での撮影には照明を多用するなど、特別の配慮を必要としたのである。
これら三本の映画に共通する意図は、箱根、熱海の聖地を紹介し、そこに込められた天国世界建設、新文明の創造という理想を教団内外に伝えようとしたのである。