アメリカへの渡航は教祖の言葉通り、昭和二八年(一九五三年)の二月にはいってにわかに事が進み、二月一一日、樋口らはハワイヘ向けて出発したのである。
ハワイへ渡った後、教線の伸びは目覚ましく、同年八月、ハワイ州政府から法人組織の認可を得、翌二九年(一九五四年)の二月にはホノルル市内に一〇〇〇人収容の殿堂が完成した。ハワイに渡って一年足らずの間に、すでに一五〇〇名の信者を擁し、落成式の当日には、七〇〇名近い参列者があったと、当時の『栄光』紙は報じている。樋口はハワイへ渡った直後から、教線発展の様子を手紙に書き送ってきた。それは「ハワイ通信」と題して、『栄光』紙上に発表され、日本国内の信者に多大の感動を与えたのである。
樋口がハワイへ渡ったちょうど同じころ、画家の嵐知重がロサンゼルス市長の招聘でアメリカ本土へ渡った。嵐は昭和一九年(一九四四年)に子供の浄化を救われ、以来熱心な信仰を続けており、代理教師という肩書でロサンゼルスを中心に布教し、半年間に二〇名ほどの信者を導いた。そこでハワイにいた樋口は、何度かロサンゼルスに渡って長期の滞在をし、嵐と協力して布教を続けたのである。そして二九年(一九五四年)五月にはカリフォルニア州政府に対し、法人設立の申請を出し、翌六月、教会用の家屋を購入、一〇月に法人の認可が降りると、その一年後の昭和三〇年(一九五五年)一一月、樋口はロサンゼルス教会の主任教師として着任した。こうして、今日の「ロサンゼルス教会」の礎が、着実に一歩一歩築かれていったのである。
しかしながら、海外布教の第一歩として着手されたアメリカ本土、ハワイの布教の歩みはけっして平坦な道ばかりではなかった。そして多くの難題、難問に直面するたびに、樋口が求め縋ったのは教祖の指導であった。
まだホノルルの教会が入手される以前のことである。日々奇蹟が起こり、信者がふえるにつれて、献金も増加するようになった。ちょうど、熱海・瑞雲郷の造営が大規模に進められていた時である。樋口は、まず聖地の建設を第一にすることが世界救済の根本になると考え、ハワイの信者の献金をその造営に役立てたいと願った。しかし地元の信者は、ハワイ教会の建設を強く望んでいる。そこで樋口はどちらが本当か、間に立って大変に悩んだ。しかしそれに対する教祖の指導はつぎのようなものであった。
「人にはそれぞれ使命がある。あなたはお金のご用は忘れなさい。あなたが心配しないでも世界中の富は神様のものだということを忘れないように。本部には必要な時にはいくらでも誠の人を通じて神様が寄せられる。時機が来て本当のことがわかってきたら大変なものだ。それよりも早く世界を救わなければならないのだから、そちらの人達が心配していることの逆をやって安心させてあげなさい。早く土地を借り、家を買って、我々の目的は人を救うことであって、金集めではないこと、献金はそちらで使うということの実地を見せてあげなさい。」
このように神の真意と人々の願いとをかみ分け、愛情に満ちあふれた教祖の言葉を聞いて、樋口は今さらながらに教祖の大愛を思い感涙にむせんだのであった。