絵 画
日本美術を語るにあたつて、絵画彫刻と美術工芸とを分けて書いてみよう。
まず日本画であるが、日本画の現在は危機に臨んでいるといってもよかろう。事実、容易ならぬ事態に直面していることは、斯道に関心を持つものの一致した見解であろう。日本画が幕末から明治時代の一大転換期に際し、絵画をはじめあらゆる美術工芸もそれに捲き込まれたことはいうまでもない。この中を喘ぎながら乗り切って、免も角、命脈をつないできた日本画家としては容斎、是真、直入、芳崖、雅邦、芳年、楓湖等でこの人達が貧乏と戦い、孤塁を守って逆境を乗り切ってきたことは、後世の画人は忘れてはならないところであろう。雅邦が古道具屋になって漸く口を糊したのもこの時で、その後、世の中が落着くとともに斯界も立直り、美術学校をはじめ博物館や展覧会などの設立を見、特に文展の開催するあり、絵画界にも漸く春が巡ってきたのである。とはいうものの、それまでの日本画壇は伝統墨守の域を脱しなかった。ところが俄然、日本画壇に原子爆弾を投じたのが、岡倉天心先生が革命的意図のもとに創設した日本美術院であった。この運動の中心画家としては大観、春草、観山、武山の四人であった。美術院の狙いの意図は光琳のところで述べたように、光琳を現代に生かすというにある。しかし時到らず、はじめは朦朧派などと軽蔑されたが、旧画風に飽き足らずなにか新しいものを要望していた世の中は捨ててほおかなかった。機運はこの運動に忽ち幸いした。燃原の火の如く画壇を風靡したことはもちろんで、ほとんど日舞画壇に革命をおこしたといってもよかろう。また別に穏健なる独特の画風の巨匠玉堂の呼応するあり、しかも京都においては稀世の天才、竹内栖鳳が明星の如く出現するとともに、富岡鉄斎また特異の画風をもって西都の一角に重きをなすなど、漸く日本画の全盛時代がきたのである。ところが春草は早逝し、観山も武山も後を追い、東京は玉堂、大観の二大家のみ、僅かに覆えらんとする日本画壇を支えているに過ぎない現在となった。また京都においても栖鳳・鉄斎逝き、その衣鉢を嗣ぐとさえ想われた関雪も夭折するという、実に東西日本画壇も劇壇と同様な寂莫さとなったことである。
以上は主に老大家を採り上げたのであるが、将来、大家の候補者と目すべきものに、東京においては古径、靱彦、青邨等の美術院派の巨匠はあるが、不思議に前者の二画伯とも病弱のため活気乏しく、それが画面にもあらわれており、青邨も近来、往年の元気なく、三者とも当分大作は期待しえないであろう。実に惜しいものである。その他、孤塁な守って一方の存在である川端竜子画伯も技は巧みで覇気も大いにあるが、惜しいかな支那料理式で油つこ過ぎる点と、彼が会場芸術の謬論を固執し、今もって目覚めない点である。右の二点を除いたら大家たりうる素質は充分あるであろう。京都においても五雲、溪仙逝き、僅かに堂本印象と福田平八郎があるが、平八郎の画は才はあるが技未だしの感あり、低迷期を脱却しえない憾みがある。以上によって日本画壇の将来を検討する時、前途の帰趨は逆賭しがたいものがあろう。
ここで私は日本画壇の衰退の原因に対し、一大苦言を呈したいのである。それは塗抹絵の流行である。私は公正な眼で観るとすれば、現在の日本画は描くのではない。塗抹の技芸である。酷かは知れないが絵画というよりもむしろ美術工芸の部に属するのではないかと思う。実に日本画の堕落である。これでは日本画に趣味をもつものはだんだん減るばかりであろう。私なども非常に絵が好きだが、塗抹絵にはなんらの興味もない。これは私だけの見解かもしれないが、大観、玉堂がない後は、日本画はどうなるであろうかと考える時、おのずから悲観せざるをえないのである。この意味で吾々の美欲を満たすには、古画よりほかにないことになる。それかあらぬか、本年の如きは展覧会の入場者激減で全部赤字というのであるから、晏如たりえないのである。
ここで古画についても少し語ってみたいが、私の好きな画は古いところでは周文、啓書記、相阿弥、雪舟、雪村、元信等はもとより支那の牧谿、梁楷、因陀羅等から中期にいたつてはもちろん宗達、光琳、乾山、抱一の外、又兵衛、探幽、応挙等であり、浮世絵は師宜、春信、歌麿であろう。現代としては栖鳳、大観、春草、玉堂、関雪ぐらいてあろう。これらについていささか短評を試みるが、まず古画における周文、啓書記、相阿弥、牧谿、梁楷等の絵画的技巧と内容は不思議の文字に尽きるのである。四五百年から六七百年以前の作品のその素晴しさは、現代大家とくらべて古人の方が師で、現代の方は弟子といっても過言ではあるまい。画面を熟視すればするほど、いささかの欠点も見いだせないばかりか、良さが無限に湧いてくる。観者をしてなにものかに打たれずにはおかない。自然に頭が下るのである。
元信はじめ探幽、雪舟、雪村などは全部よいとはいえないが、時には非常に優れたのもある。
光琳は、「光琳」のところに書いたから略すが、宗達も優れたものがある。光琳ほど大胆豪放ではないが、非常に用意周到、筆意の簡素、思わず微笑む画で、私は堪らなく好きだ。また乾山は独特の味があって、筆は少し硬く稚拙なところはあるが、また捨てがたい作風である。応挙は常識的で破綻がない。気品も高く行くとして可ならざるなき絵で、とにかく、名人である。又兵衛は一名勝以といい、大和絵と狩野風で調べも高く、上品で好もしい絵である。抱一は人も知る如く光琳の憧憬者で、彼独特の気品と、洗練せる技巧と、一両俳人的妙味もあつて捨てがたいものがある。
近代にいたっての名画人としては芳崖、雅邦、春草に指を屈するが、現代人としては栖鳳、大観、玉堂の三人であろう。栖鳳の大天才は他に真似のできないところがある。彼の写実的技巧にいたっては、外遊の影響から色彩に洋画を採り入れ、物の感覚を把握する鋭さと表現の手際は、古今を通じて並ぶものはあるまい。特に彼の画は極端なほど簡素で、点一つといえどもゆるがせにはしないことで、全く神技である。今日の画家があらずもがなの筆や色で所狭きまで塗りつぶす如きは、その低俗なる、何故栖鳳を解せざるやを疑うのである。千万言の意を一言にして喝破する態の境地を覚るべきである。もつとも前述の如き描き過ぎる画は展覧会に否でも応でも当選されようとし、絵具と努力で選者の同情に訴えんとする意図からでもあろう。
つぎに大観であるが、無線派の巨匠としての彼の絵は脱俗的な一種の風格がある。素朴典雅で、風月物体を表現する神技は、栖鳳のあまりに写実にとらわれるに反し、彼は放胆なうちに注意を払い、物体の表現と技巧と、風俗に媚びず、独自の境地に取澄ましている態度はまた偉なりというべきで、ただ一つ惜しむらくは画題の極限されている点である。春草は大観の女房といつてよいくらいで、彼の絵の柔かさは春の野に遊ぶが如くで好もしい作風である。
玉堂は、玉堂としてのいうにいわれない味がある。特に彼の線の柔かく、簡素で、よくその効果を表現している技は凡ではない。特に私の敬服するところは、奇をてらわず、野心なく淡々として平凡なるが如くで非凡である。自然の風物もよく表現して観者を魅惑する力は他の追従を許さないものがある。実に奥床しい画風である。
鉄斎の絵はまた独特のもので、無法の法ともいうべく、実に興味津々たるものがある。しかし鉄斎は六十才を越えてからああいう画になつたので、八十九才で逝いたが、晩年になるほど傑作が多かつた。
鉄斎没後、第二の鉄斎を期待した富田溪仙の夭折もまた惜しいものであつた。
次に関雪であるが、彼はこれからというところで逝いたのは惜しみても余りある。彼の絵にはほとばしる覇気をよく包んで表わさず、南画風であって筆力雄渾また凡ならず、しかもワビの味をよく出している。ただ年
の若いためか出来不出来のあつたのは止むをえないであろう。せめて六十以上の年をあたえたら名人の域に達したにちがいない。
彫刻
つぎに彫刻のことを少しかいてみよう。昔の運慶や左甚五郎などはあまりにも有名であるが彫刻は絵画とちがい、昔から名手は非常に少なかった。ここには現代のみをかくことにするが明治以後今までに見られない隆盛となったことは、展覧会などの刺戟があずかって力あったことはもちろんである。まず有名人としては木彫では石川光明、米原雲海、山崎朝雲の故人および老大家をはじめ、平櫛田中、佐藤朝山改め同清蔵氏などが主なる人であろう。以上のうち私は田中が好きだが、近来は往年のような活気が乏しいようである。ひとり清蔵氏のみは今膏がのりきっていて、なかなか名作を出している。氏に望むらくは、満々たる野心は長所に価いするが、今一段の洗練と円熟とを期待したいのである。まことに人なき彫刻界にあつて、君こそは近代の名人たりうるであろう。
銅像や塑像においてはなんといっても、朝倉文夫氏に指を屈せざるをえまい。しかしながら同氏の技術は行くところまでいった感があるのは私のみの見解ではなかろう。
ここで特筆すべきは、古代においての仏像彫刻である。かの法隆寺における幾多の仏像の洗練せる技術は、千二百年以前、天平時代の作とはどうしても考えられないのである。これを凌ぐべき彫刻芸術は何時の日か生れるであろうかを思う時、多くの期待は望みうべくもないと思わざるをえないのである。
蒔絵
つぎに、美術工芸についてかいてみるが、これも絵画と同様古人の優秀さは驚くべきものがある。まず外国にない日本独特の工芸美術としては蒔絵である。よつてそれから書いてみよう。蒔絵は余程古くから発達したもので、天平時代すでに立派な作品ができている。もちろんその時代のものは仏教関係のものが多く、研出蒔絵の経箱などがほとんどである。蒔絵が大いに盛んになつたのは、鎌倉、宝町時代からで、ついで足利期に及び、桃山時代に至って大いに進歩発達し名工も簇出したのである。就中、五十嵐道甫、山本春正、古満休意、休伯、塩見政誠等は主なる名工であり、多くの名作を残している。それまでは研出蒔絵のみであつたが、その頃から高蒔絵が製出されるようになつたが、一方これに対し、全然新しい図案と描法をもつて、一大センセーションを捲き起したものは、かの本阿弥光悦および尾形光琳である。彼等は蒔絵の外に鉛、青貝などを巧みに応用し、前者の巧緻を極めた美々しきものに対し、これはまた自由奔放、独特の図案はもちろん、雅致横?したものである。ついで小川破笠の陶器を混入した新機軸的のものや、杣田重光の金銀の薄板と青貝などを主とした独特の作を出すあり、漆芸の進歩著るしいものがある。そうして桃山時代の飛躍の後を受けて徳川期に入
るや、各大臣が競うて大作名作を製作させたので、名工輩出するとともに、かの百万石の大々名加賀の前田氏の如きは御小屋と称し、庭園の一部に仕事場を作り、名工を招聘し、材料も手間も御入用構わずで一生涯捨扶持をやつたことによつて、いかに絢爛優秀なる作品を生むにいたつたかは、今なお博物館をはじめ各所に残つているものにみてもよくわかるのである。全く日本が世界に誇る一大芸術国であることも認識されえよう。
江戸初期にいたっては梶川彦兵衛、同文竜斎等があり、幕末には中山胡民等が知られている。幕末から明治初年の衰退期を経て、一躍全盛期に突入し多くの名工が簇出し始めたのである。即ち柴田是真、白山松哉、小川松民、池田泰真、川之辺一朝、赤塚自得、植松抱民、同抱美、船橋舟眠、迎田秋悦、都築幸哉等が主なるものである。
ここに特筆すべきは白山松哉である。恐らく彼は古今を通じての第一人者であつて、彼の右に出ずる者は一人もないといっても過言ではなかろう。彼こそ漆芸界における大名人である。彼の作品を見るとき私は頭が下るのである。もちろん最初の帝室技芸員でありながら、彼の逸話として伝えられるところは、大正時代、彼は一日の手間賃四円五拾銭と決め、それ以上は決してとらないということで、実に無欲恬淡、ただ芸術にのみ生きたという、彼こそは真の意味の芸術家であるといえよう。実に敬慕すべき巨匠ではあった。
陶 器
陶器についてもかいてみるが、元来、陶器も絵画と同様、支那から学んだものであるから、最初の日本陶器はほとんど支那の模倣であった。古いところでは黄瀬戸、青織部、青磁、染付、有田、平戸などで、美術的陶器としてはかの柿右衛門がはじめたもので、ついで稀世の陶工仁清が京都にあらわれ、さらに九谷焼がうまれ一方京都では栗田、清水などの色絵もでき、仁清風が伝わつて伊勢の万古、赤絵となり、ついで薩摩焼の錦手などが製作されることになった。
また窒町時代およそ四百年前、尾張、瀬戸にうまれたのを古瀬戸といい、古くは千二百年前、奈良朝頃から自然灰を上釉とした青磁風の陶器ができ、日本青磁も江戸中期からできたが、到底支那青磁に比すべくもない。
柿右衛門は江戸初期の名工で、近世色絵、錦手などの新機軸をだしたので、その功績は斯界の大恩人であろう。その後元碌時代の六代柿右衛門は、渋右衛門の釉によつて優秀な製品をだし有名となった。
特に私の好きなのは肥前の大河内焼で一名鍋島焼といい、享保年代はじめて作られたもので、皿類が多く、その意匠の抜群なる色絵染付の技術と相まって垂涎措く能わざるものがある。つぎに俗に伊万里焼という錦手ものも捨てがたいところがある。また薩摩焼の巧緻にして、絢爛たる色絵も可なるものがある。しかし以上の三者とも、近代のものは意匠、技術ともに見るべきものなく、なんといつても二百年以前の物にかぎるといつてもいい。
ただ百五十年前にうまれた錦手風の九谷焼は見るべきものがある。特に吉田屋の青九谷や色絵物に優秀なも
のがある。
私は最後に語るべきものにかの京焼の祖である、名人仁清がある。彼は仁和寺村の清兵衛が本名で、陶工としてはまず日本における第一人者といつてもいい。彼の作品にいたつては、その多種多様なる形状模様の行くとして可ならざるなき作風は天稟であろう。しかもその高雅典麗にして、他の陶器をきりはなしている。特に抹茶碗、壷などには国宝級のものも相当あり、画界における光琳ともいえよう。彼の偉なる点は日本陶器はほとんど支那を範としたにかかわらず、彼のみはいささかもそれがなく、日本独特のものを作つている。もつともかの鍋島焼も同様日本独特のもので、この点二者同様の線に添うており、支那以上のものも多く出している。また乾山も稚拙な点もあるが、趣味横溢したものもある。光琳の弟であるため、光琳との合作もある。
また備前焼にもなかなかよいものがある。おもに花生、置物などで、古備前、青備前など優品が多く、推奨するに足るものがある。また祥瑞も私の好きなものである。その他、京焼物の種類も多いが、名だたるものとしては初代木米ぐらいであろう。
陶器を語るにあたつては茶器も語らなければなるまい。茶器としてはまず茶碗であろう。特に朝鮮ものが最も珍重される。最高のものとしては井戸であろう。井戸のうち喜左衛門、加賀、本阿弥などは有名である。これらは今日といえども価格数百金というのであるから驚くべきである。ついでとと屋、柿の蔕、粉引、蕎麦などは朝鮮物として珍重されている。純日本物としては古瀬戸、志野、織部、唐津、伊賀、信楽、萩の外長次郎のんこう、光悦、仁清などであろう。特に長次郎は楽の元祖で、利久の寵を受けた名工で、今日まで十三代続いている。
つぎに新しいところを少し雪いてみるが、明治以後今日まで特筆すべき名人はまだでないようだ。主なる名工としては初代宮川香山、清水六兵衛、板谷波山、富本憲吉ぐらいであろう。
支那の陶器としてはまず青磁にも砧、天竜寺、七官の三種がある。その他交趾、万暦、赤絵、呉州などがある。朝鮮物は白高麗ぐらいであろう。
書道
私は絵とともに書も好きである。御存知の通り毎日数百枚の書をかく。恐らく私の書く書の量は、古往今来日本一といつてもよかろう。お守にする光の書は一時間に五百枚をかく。また額や掛軸にする二字乃至四文字の書は三十分間に百枚は書く。余りに早いため三人の男で手捌きをするが、なかなか追つきえない。トント流れ作業である。
書道について私は以前ある有名な書家に習いたいと申し入れた。それは略字に困ることがあるからで、それを知りたいためといつたところ、その書家がいうには、「先生などは書を習うことはやめになつた方がよい。何故ならば習つた書は一つの型に嵌つてしまうから個性がない。字が死んでしまう。形だけは美しいが内容がない、自分などはその型をいま一生懸命破ろうとして苦心しているくらいだから、先生などは自由に個性を発揮される方がよい。字を略す場合など、棒が一本足りなかろうが多かろうが一向差支えない。」と云うので、私は成程と思い、習うことはやめてしまったのである。
絵画や美術工芸なども、古人の方が優れていることは定説となっているが、書にいたっても同様で、私は古筆などを観るごとに感歎するのである。特に私が好きなのは仮名がきで、現代人には到底真似もできない巧さである。もっともその時代の人は生活苦や社会的煩わしいことなどないから、悠々閑日月の間に絶えず歌など物したり書いたりして楽しんでいたためもあろう。現代人で古人と遜色のない仮名がきの名手としては、尾上柴舟氏ぐらいであろう。古人で私の好きなのは先ず貫之、道風、西行、定家、光悦等であるが、特に光悦の一種独特の文字は垂涎措く能わざるものがある。また俳人芭蕉の文字もなかなか捨てがたい点があり、しかも芭蕉の絵にいたっては専門家とくらべても遜色はあるまい。これによってみても、一芸に秀ずる人は他のものも同一レベルに達していることがわかるのである。
漢字では王義之、空海等はいうまでもないが、近代としては山陽、海屋、隆盛、鉄舟等も相当のものである。なんといっても漢字は文字の技巧よりも人物のいかんにあるので、やはり大人物の書は形は下手でも、とこか犯しがたい品位があるものである。