では神仙境はどうしてできたかということである。明主は箱根と熱海を非常に好んでいた。戦争の激化で疎開地を箱根にもとめ、箱根なら強羅にかぎると思っていた。すると強羅の故藤山雷太氏の別荘が売りにでたので、早速、購入した。土地は六百余坪で家屋は百坪ぐらい、四方の眺望よく、風光明媚なること箱根随一と思われた。そこでこの家を「神山荘」(百三十坪)と名づけた。背後に箱根最高の神山があるからである。その前の一段ひくい山が早雲山である。ここへ移ってから、隣地約二千坪の土地を買いとった。この土地の中央部に離家をたてたが、これが今の「観山亭」(三十五坪)である。
終戦となったので、秋田から杉材千石を買いつけると、神仙郷の一段ひくいところ、六百坪が売りにでたので買いとった。ついでよい設計家をえて建てたのが「日光殿」(百五十坪)である。これは信者の拝殿であるが、その西方に隣接して、清冽な山清水の落ち込む滝がある。「竜頭の滝」という。滝をかすめる岩燕に風情をそえる。その水の流れ下るところに池がある。この神泉には、信者寄進の鯉が水蓮の花蔭をおよいでいる。その頃、ここをば「神仙郷」(総面積、約五千坪)と名づけた。ここは苔岩に谷水、桜に紅葉、竹に萩いろいろの樹木も多く、若葉・青葉・紅葉によく人訪れることすくなく雪もよい。三方、山にかこまれて海かすかにひらけ、四季折々の風情はひとしおである。観山亭の下のひくい平地に茶席の「山月庵」(二十三坪)を造った。その横に「萩の径」をつくり、そこに「萩の舎<や>」という小家屋を造つた。萩の道を上つたところに、岩に疎竹を配した「竹の庭」を造った。そこから石の階段を上ったところに三階建の「美術館」(百二十三坪)を建てた。そして竹の庭から萩の径を下ったところに、「美術館別館」(六十坪)と美術館の入口、受付の建物を造つたのである。
美術館、くわしくは東明美術保存会美術館は、昭和二十六年十一月より建築に着手し、昭和二十七年六月十五日に開館の運びとなり、ここに神仙郷は完成された。美術館も明主の構想、設計によったもので、室内の設備や装飾もいちいち、指図されてできあがったものである。本館の建坪は百二十二坪五合で、延建坪は二百六十六坪五合、三階建の鉄筋コンクリート造りである。そして唐風の群青色の瓦の屋根に、クリーム色の瀟洒<しょうしゃ>な建物である。しかも採光や温度・湿度や火災・盗難などについては、特にふかく留意されてある。入口の切符売場・休憩所は建坪四十坪、一階建である。また昭和二十八年六月一日には別館が新築開館された。本館同様、唐風の群青瓦の屋根、クリーム色の一階建で、建坪は六十坪である。神仙郷の高きところ、樹間にこれをのぞめは、清楚にして近代的な美の館ということができる。
かくて数年の間に、神仙郷の建造物が整い、庭園を造り、神の殿堂と美の殿堂をあわせた地上天国の模型を完成したのである。すなわち自然の山水美と人工の庭園美と日本独特の美術館をあわせた美の神仙郷をつくつたのである。
神苑は東面した斜面で、その下段が強羅公園である。前面には明神ケ嶽、明星ケ嶽がなだらかな曲線を描いて、左の方、金時から乙女峠へつらなってゆく。明神が左の片袖とすれば、右の片袖は浅間山<せんげんざん>である。両袖のややひらけたところ、はるかかすかに相模湾がみえる。晴れた時には三浦半島が一線を描き、その少し上方に一線を劃しているのが房総半島である。右に頭をめぐらせば、浅間山は椀を伏せたような山で、遠く早雲山にまでつづいている。それを圧するように覆いかぶさる山は駒ケ嶽である。かく早雲山を背後に、明神、明星を前にして、右手はるかに海をみる。山腹から遠望する開放式の神苑である。
「夕月に海少しある木の間かな」前面を木立でさえぎり、わずかに木の間に海少し、夕月に霞んでみえるような深奥式の造庭が小堀遠州のものである。神仙郷は背後に高山を背負い、左右の両面に山つらなり、その間にわずかに遠い海がひらけている。前後左右の山はすべて庭園の一部と思われるところに、雄大な開放式の庭園の特性をもっている。
土地の選定、建築、庭園、美術品の購入、すべて明主の雄渾な構想のなかにある。そしてその感覚も鋭敏新鮮である。よく調和の美を解し、開放展開を好む明朗な光明性を示している。四周ひらけ、内部も明るい近代様式の庭園美である。
ある時、明主が木鋏をもって、庭木の枝をばさりばさりと無雑作にきってゆくと、おのずから形をなすのをみて、植木屋が驚嘆したという。鋭い審美眼がなければ、できないことである。ある生花の宗匠に花を生けることをもとめると、即座に花をば程よく左手の上に揃え、もとをパチッと鋏を入れて落し、そのまま左手で花生に入れて終った速さに驚いたことがある。形の美を正確にとらえていなければできないことである。明主の審美眼とその造型的構想は、日頃の美術鑑賞によって自得したものであろう。しかも雄大な構想には、まことに雄渾にして非凡なものがある。
明主は構想について、「この神苑は昔から誰も試みたことのない新機軸をだしたもので、神命のまま造るのであるから、神の芸術といってもよかろう。」そのねらいどころは、自然美と人工美とをよく「調和」させた一個の「芸術品」をうみだそうとしたところにあるという。おなじことを、こうもいつている。「天然の風景はもとより、花咲く樹木や、緑樹、草花などの色彩美もそうだが、岩石、溪流、池など、一つ一つ、それら自然の持味の美を、最大限に発揮させるとともに、すべての調和に意を用い、渾然たる大自然の芸術品を造ろうと企図した」のであると。個性の発揮と全体の調和が、その構想の二原理であった。特に調和美における調和思想は、明主の特に重視するところのものである。