六 尾形光琳

私は若い頃から絵が非常に好きであった。そうして古今を通じて私の一番好きな画家は、なんといってもかの光琳である。光琳派のなかでは光悦も宗達も光甫も乾山も、それぞれよいところはあるが、なんといっても光琳は断然傑出している。彼の絵ほど簡略にして、しかもその物の実態を把握しえているものは類がない。彼は全然物体の形を無視していて、しかも物体の形を忠実に表現している。あたかも千万言を費すとも人を動かしがたいところを、三十一文字の和歌の力が動かしうるのと同様である。そうしで私の最も驚異とするところは、それまでの日本画が支那伝来の型にとらわれていたのを、彼は思いきって破ったのである。それは有線描法を無線にしてしまつたことと図案風に脱皮した点である。一言にして云えば、それ迄一種の法則にとらわれていた画風に対し、革命的描法に出でたその大胆さである。

 光琳逝いて二百数十年になる今日、彼の偉業は明治画壇に革命を起した。それについてこういうことがあった。私は三十余年前、岡倉天心先生が大観、春草、観山、武山の四画伯を従え、常陸の国五浦に隠棲した時であった。その頃私はある事情があって、天心先生に面接することをえた。先生は将来の日本画に対する抱負などを語られ、私も非常にうるところあり、先生の凡ならざることもその時知ったのである。その日、下村観山木村武山の二画伯と一夜語り明かしたことがあった。その際、観山先生の語るところによれば、「美術院を作つた天心先生の意図は、光琳を現代に生かすにある。したがって吾々は線をつかわないのが本意である。今日吾々の画を朦朧派などといって軽蔑するが、いずれは必ず認められる時がくるにちがいない。」というのである。全く先生の言の如く、院派の画は間もなく日本画壇を風靡し、日本画の革命となった事は周知の通りである。また観山先生はこういうことを語られた。泰西における絵画が写実主義が極度に達した結果、徴に入り細に渉り写真と優劣を争うようになり、どうにもならないまでに行きづまり、なんらか一大転換の途を発見しなければならないという時に、仏蘭西の画壇で光琳を発見した者があった。巧緻なる写実主義とは全然反対である光琳の行き方に驚異し、讃嘆したことは察するに余りある。果然アール・ヌーボー式なる図案がうまれ、前期印象派の運動が起り、遂に後期印象派の巨匠としてのゴッホ、ゴーガン、セザンヌ等の鬼才を生むにいたったのである。そればかりではない、あらゆる美術工芸にまで革命を起し、遂に建築の様式にまでおよぼすこととなった。建築界においても、それまでのギリシャ、ローマ式セセッションによって大いなる変化をきたしルネッサンス式は影をひそめ、近代的建築の様式を生むにいたったことは衆知の通りである。今日、世界を風靡している仏のコルビジュエ氏創成の極度に簡素化された建築様式も、そのもとの元は光琳の影響であることはいなめないところである。

 私は死後数百年を経過して俄然全世界を動かした、いな人類文化の一分野に革命を起させた日本人光琳こそは、日本が誇る最大なる存在であるといつても過言ではあるまい。

 今日までの日本人にして、その業績が世界のある分野を動かしえたという例は一人もあるまい。ひとり光琳あるのみといわざるをえないのである。