六 神を見せる宗教

 つぎに神の存在を認めることができなければ信仰に入るわけにいかない。しかし神を見ることは容易にできるものではない。ほんとうはなんらかの衝撃にうたれて豁然として霊眼がひらけるのでなければ、神をみることはできない。すると明主はいう、なにそんなむずかしく考えんでもよい。おいで、神を見せてあげるからと。救世教は神を見せる宗教だから、うそかほんとか、きてみたらいいではないか、といいなさる。

 「神を見せる宗教」という文にこう書いてある。世間によくあることだが、信仰のない人に、いろいろ実例をあげて、神の存在を説明しても、容易に納得しないものだ。それは神の存在は説明によってわかることは少いからだ。あまりくどくどいうと、この世の中に神様なんかあってたまるものか、もしあるんなら、一つ見せてもらいましょうとくる。これで説明者はギャフンと参ってしまい、グウの音もでなくなる。すると相手は、ソレ見ろ口惜しいけれど神様なんて見せることはできまい。迷信だけは真ッ平御免だといわんばかりに、鼻先でフフンと笑っている。

 ところが救世教では、神の実在をはっきり見せている。ほんとうに神を見せることのできる宗教だから、世界に類例はないであろう。

 入信者のよくいうことであるが、救世教の刊行物をみると、医者に見放されたような病人が治ったというお蔭話がのっているが、ただ不思議に思うばかりで、とても信ずることができない。しかし物は試しと、疑い疑い浄霊をうけると、ただ事をかざすだけなのであきれてしまい、これほど進んだ医学で治らないものが、こんな他愛ないやり方で治るわけはないと思い、やめてしまおうかと思っていると、翌日はなんだか気持がよく、軽くなったような気がするので不思議でたまらないが、マアだまされたと思って、いま少し辛抱してみようとまかしていると、メキメキよくなってしまったので、はじめて神霊の存在を知ったという。

 このように、最初、浄霊をうけにくる患者の十人が十人といいたいほど、大いに疑いを抱いているが、これも無理はない。なにしろあらゆる医療や療法をうけても治らないので、散々こりたあげくにやってくるんだから、本当に治る療法などありっこないときめてしまっているからである。とはいうものの死にたくはない。一抹の希望を抱いてくる。しかしどうせなおらんでも元々だという気持である。そしてだまされついでに、もう一度だまされてやれという冷かし半分の気持と、万が一にもひょっとしたらという藁をもつかむという甚だ頼りない気持で、浄霊をうけにくる。 そこできてみると、話にきいてきたようにただ手をかざすだけで、なんのことはない。これほどの大病がこんなことで治る道理はない。ああ馬鹿々々しい、こなければよかったと後悔する人が少なくない。どうせだまされる気で来ているのだし、治らなくも元々だから損はない、という気持できているのだから、バカにしながら、冷かし半分で浄霊をうけていると、だんだんよくなる、そして治つてしまって、ああ、これで助かった。本当に救われた、ありがたい。この世にたしかに神はある。今までないと思つていたのは飛んでもないまちがいだったと、歓喜にひたるのである。

 多くの宗教が病気を治す場合、必ずといいたいほど最初から「疑ってはだめだ、信じなくては御利益はない」という。ところが救世教では「最初から大いに疑え、木当に御利益を見ないうちは決して信じるな」というのである。御利益のないうちから信じろというのは無理なことだし、信じるものも自分の心をいつわるものだ。医者から見放された大病が治って、神様から生命をいただいたことがはっきりわかつてこそ、全身全霊をうち込んでもまちがいない宗教である。

 世間には迷信だと頭からきめてかかる人も多いが、中には頭のしっかりした人があって、こんなにたくさん奇蹟的な事実があるからには何かある。要するに病気は治ればよいのだ。事実の前にはまず素直であることが必要だ。治るか治らないか一つ実験してみよう。そして治ったらなぜ治るのかを考えてみよう。考える価値はそれから生じてくる、と素直に浄霊をうけて助かり、幸福になった人もすくなくない。こんなわけで、救世教が想像もできない奇蹟をあらわし、手にとるように神の実在を見せる力で、どんなに頑固な人でも、どんな無神論者でも、結局はカブトをぬぐのである。

 そこで救世教は「奇蹟の宗教」であるという。奇蹟と宗教とは切っても切れない関係にある。もし奇蹟のない宗教がありとすれば、それはもはや宗教とはいわれない。なんとなれば、奇蹟は神が作るのであって、人間の力では、一つの奇蹟もつくれないからである。故に奇蹟のない宗教は、宗教としての存在価値的はないわけである。

 したがって偉大な宗教ほど、奇蹟が多くあらわれるのは当然である。奇蹟とは人間業ではとてもできないことが起ったり、理窟ではどうしてもわからないことが目の前におこることである。

 戦後の社会悪の激増は、一つには青年層が唯物思想にわざわいされ、信仰心がなく、神をおそれる気持がなくなったからである。この唯物思想を打破して、宗教心に目ざめさせることが必要だがそれには根本において見えざる神を認めさせることであるが、その方法はただ奇蹟を示すだけである。奇蹟によって神を認識させ、信仰や愛の心をとりもどす以外にない。

 この意味で「奇蹟は宗教なり、宗教は奇蹟なり」であるが、救世教ほど奇蹟の多い宗教はないのである。戦後世界の大転換期にあたつて、唯心的魂を喪失した世界に対して、奇蹟の息吹によつて、眠れる魂をゆり動かすのが救世教の目的である。

 昔から、宗教に奇蹟はつきものとされているが、救世教ほど奇蹟の多い宗教もあるまい。救世教の浄霊による病気治しについて、誰でも不思議に思うことは、疑っても、物は試しだと思っても、こんなことで治るもんかと思っても思わなくても、おなじようによく治る。よくあることだが「信ぜよ、疑ってはならない」などというが、何もないうちから信ぜよとか、なんら実証も見せないうちから信ぜよなどといわれたって、できない相談だ。それでも信ずるなら、そいつは馬鹿だ。といってはいささかいいすぎだ。なにしろ「信は力なり」「鰯の頭も信心から」ということもあるからね。しかし信ぜられないものは、素直に信じない方がいいのだ。少く、とも自分をいつわることになるからなあ。奇蹟をみてから信ずればよい。救世教のように奇蹟をあたえられてみると、ほんとうに心の底から信ずるようになる。それが正しい信仰であり、真の宗教である。

 救世教の一大特色は奇蹟の多いことであった。奇蹟とは現世利益であるから、救世教は「現世利益の宗教」ということもできる。救世教の現世利益は自慢じゃないが素晴しいものである。ところが、現世利益を目的とする信仰は低級であるというのである。そして現世利益は問題にせず、ひたすら高遠な宗教理論をならべて、実生活からかけはなれたものほど高級な信仰であり、権威ある宗教と思っているようだ。

 まずどんな深玄な宗教でも、実生活からかけはなれたら、もう宗教ではない。宗教哲学といった方がよい。宗教は生活を救うもので、生活のなかにあるべきものである。そして生活の指導性を失ったら、もうその宗教の存在意義はないのである。残るはただ高遠な宗教理論の形骸だけである。生活性を失えば社会性もなくなる。そんな宗教はもう社会が必要としなくなるのである。

 考えてみるがよい。宗教の使命は何であるか。人類の苦悩を救うにある。そして苦悩は生活のなかにある。この苦悩が救えなければ生活を救うことはできない。生活のなかにはいろんな苦しみがある。その苦しみを救えないようでは宗教の値打はない。一部の教養のたかい人には、それは高尚な苦悩があろう。それだけを救う宗教なら、それは上層階級の宗教で、大衆とはなんらかかわることのない宗教である。それは貴族の宗教であっても、民衆の宗教ではない。お釈迦さんの悲願は衆生済度であった。大衆を救うことであった。宗教は本来、大衆のためにあるものだ。大衆をはなれた宗教はないのだ。

 大衆の生活において、いな人類の生活において、老若男女、貴賤貧富の別なく、一番もとめることは健康である。病気が治りたいことだ。それは身心ともに健康であること、身心ともに病気から解放されることと、ひろく解釈しても、肉体の健康であること、肉体の病気が治ることと、狭く解釈してもよい。それは結局おなじことになるから。

 人間は健康であるのが真のあり方である。病気であるのは真の人間のあり方ではない。したがって病人には人間としての真はない。人間としての真を恢復するために、病気を治したいとするのだ。病気であると生きることにさしつかえる。はたらけない、生活することができない。苦しむだけで、人生を楽しめないから、よろこびがない。おまけに死ぬから恐ろしい。人間、病気であると、金がほしい、地位が欲しい、名誉がほしいもへったくれもない。健康が人間に一番ほしいものなのだ。

 この人類根本の欲求である健康をあたえること、病気治しをすることをもって、現世利益をあたえるものだから、低級な信仰であるという。人類を病気から解放することが何よりも第一だ、病気が治り健康になれば、一生懸命にはたらける。生活も楽になれば信用もできる。家庭もよくなり、子孫のためにもなる。人間の真を発揮するには健康でなければできない。なるほど人間は病気を治したい、金が欲しいの慾望が根本である。病気と貧乏からの解放をもとめる。これから解放されなければ、人間の生活の幸福はない。

 宗教は人類に幸福をあたえるものだ。幸福をあたえる根本の条件である健康と生活の余裕をあたえることをもって低級だという。もっとも教義もなにもなく、これを信仰すれば病気が治る金が儲かるというお蔭信仰や利益信仰だけのものがある。これはたしかに低級だ。その反対に現世利益は全く問題にせず、教義を学問的にとりあつかい、高遠な理論だけの宗教もある。これは高級かも知れないが役にたたない。大衆は縁なき衆生だろう。

 救世教は現世利益をあたえるから世俗的信仰だという。救世教は現世利益が素晴しい、だから世俗的信仰というならそれもよい。しかし教義もあれば理想もある。そのことは地上天国のところで述べてきた。だから素晴らしい理論宗教でもあり、行動宗教でもある。そして信仰即生活の理論を如実にあらわそうとするのであるから生活宗教でもある。その上、医学も農学も芸術も経済も政治も教育も、人事百般のことはすぺて包括し、人類救済の大業を遂行し、病貧争のない世界、真善美の完全に実現される地上天国を建設することを目標とし、人類永遠の幸福と世界恒久の平和を実現しようとする宗教以上の宗教、超宗教であり、幸福にして平和な世界を建設する事業を使命とするところに究極の理想がある。

 明主はいった。この「私の仕事を邪魔しないでくれ。」