人間が神と対決するときは、徹底的に人生を懐疑した時か、死生の関頭に立たされる時かである。そのときどうしても神を認めることのできないものは死をえらぶであろう。そのとき、神を認める認めないは別として神にすがるものは、救いをもとめるであろう。神についてのしっかりした自覚がなくても、神にすがるということは、すでに神を認めるものである。すくなくとも神を予想するものである。
かく人生懐疑の徹底において、または生死の関頭にたたされて、人ははじめて真剣に神と対決する。そして宗教はここからはじまるのである。古代において、人は純朴であったから、すなおに神を認めた。中世は宗教的環境にあったうえに、戦乱うちつづいて、生死は常に眼前にあったから、神仏に救いをもとめた。近代は唯物論にたつ科学の発達から無神論の環境にある。階級的にみても、科学的教育をうけた知識階級ほど、無神論の教育をうけ、無神論の環境にあるから、最初から神仏否定だ。したがって懐疑もしくは生死の関頭にたってはじめて神と対決するようになる。だから神を信ずるより、まず神を疑えというがよい。疑うということがすでに、神があるのかないのかを考えるはじまりだからである。故に明主も正しい信仰は疑いからはじまるという。哲学は懐疑に始るとは有名な言葉であるが、現代の知識階級にとっては、宗教は懐疑にはじまる以外に道はないであろう。真の信仰はそこからはじめるのが正しいのである。神を認めることは理窟でできることではない。神は論理の世界にはいないからである。神を見るには霊眠がひらけなければならない。が「第三の眼」はそう簡単にひらけるものではない。かく自己自身による覚証はむずかしい。
そこで明主はうまいことをいう。なにもそんな苦労せんでよい。いとも簡単に神様を見せてあげる。なんとなれば、救世教は「神を見せる宗教」だからだ。そして神がいるとわかつたら信ずるがよい。神などを認めないくせに信ずるなんて、自己凝瞞も甚だしい。よろしく自己の良心にかえりみて恥じるがよいと。まず「正しき信仰」という文に
支那の碩学<せきがく>、朱子は「疑は信の初めなり」といったが、これは全く至言である。私は「信仰はできるだけ疑え」といつもいうのである。世間にいろいろの信仰があるが、正しい神を信仰するものは少ないのである。したがつて厳密に検討を加えると、たいていの宗教はなんらかの欠点をもつているから、入信の場合、まずなによりも疑ってみることである。そしていくら疑っても、欠点を見いだせない信仰であれば、それこそ信ずるほかはないであろう。ところが世の中には「信ずれば御利益がある」という宗教があるが、これは大いにまちがっている。少しも御利益もみとめないうちから信ずるということは、おのれをあざむかなければならない。また「信じなければだめだ」と、頭から信仰を強制するひどいのがある。信仰というものは強制されてはじめるものではない。そんな宗教はまずこちらから御免蒙るにかぎる。そこで信仰に入るには、最初はただふれてみる、研究してみるという程度で、ふかく観察し、できるだけ疑うのである。そうして教義も信仰理論も合理的で、一点の非のうちどころもないばかりか、神仏の御加護がはっきりしているほどのものであれば、まず立派な宗教として、入信すべきである。
ところが宗教のなかには恐怖宗教や恐喝宗教がある。何をすると神様のお怒りにふれる、これをすると罰があたるというふうに戒律づくめで、生活の自由がない。それだから神に対する親しみや敬愛の念などは全くない。ただ恐れおののいているばかりだから恐怖宗教だ。戒律とは宗教の法規だ。戒律によって悪を抑制しなければ、正しい信仰ができないというのでは本当の宗教ではない。戒律を破るとこれこれの地獄へ落ちるなどと刑罰法定主義でのぞむのだからたまったものではない。こんな恐ろしい宗教はこちらから御免蒙る。いったい信仰はほんとうに楽しいものでなければならない。神に対する感謝の念がおのずからわき、楽しい日々が送れるようでなければならない。
いろいろ苦労や心配事がつずくので伺うと、「あなたの家は、先祖から罪障が多い。苦しむのはそのためだから、一生懸命に罪滅しをしなければいけない。しかしあなたはまだ信仰心が足りないから、苦しみが絶えないのだ」とおどかす。祖先の罪障を背負わされたり、信仰を強要されたんじやたまったものじゃない。あまり苦しいから信仰をやめようとすると、きまって「あなたがこの信仰をやめれば、一家は必ず死に絶える」とおどかされるので、抜けることもできずに、可哀想に蟻地獄みたいな信仰地獄、宗教地獄にずるずるとおちこんでいってしまう。宗教の名によって、生命をおびやかしたり、おどかしたりするのはよくない。
信仰の目的は、天国的歓喜の生活者となるところにある。楽しみながら信仰ができるものでなければならない。救世教は幸福な地上天国の建設を目標とする。家庭の天国化、社会の天国化をもとめ、生活の中に光明を見いだす宗教であり、光明生活を実現しようとする宗教である。
「わが仏尊し」で、どの宗教でも、自分の宗教は最高で、他の宗教はどれもこれも劣ると考えやすい。他の宗教にふれるのをきらい、転向したりするのを極度に恐れる。宗旨をかえようとすると、「大きい災がくる。大病にかかる。命がなくなる。一家断絶する」などと、縮みあがるような恐ろしいことをいう。もしこういう宗教があるとすれば、これは宗教の名によつて恐喝するものだ。脅迫によって信者の自由意志を束縛し、信教の自由を拘束するものだ。宗教は自由でなければならない。これなどはあきらかに信者を減らしたくない苦肉の策ではあろうが、これは宗教の封建主義で、信仰封建ともいうべきものであろう。本当に立派な宗教ならばほかのどんな宗教にふれても迷いの生ずる懸念などないはずだ。
元来、信仰というものは、人間の魂の底からおのずからわき出で、止むに止まれず信仰するという態度こそ本当のものである。ところが宗旨をかえることを罪悪として脅迫するなどもってのほかだ。宗教には自由なる信仰がなければならない。信教の自由とは、信仰の自由でなければならない。宗旨をかえるものも自由にかえたらよい。なんとなれば、よりよい宗教ほど、救われることも多いのだから、それは正しい行いである。正しい行いをして、神様からおとがめをうけるなどということは、決してあるべきはずはない。正しい信仰はまず正しい宗教をえらぶことだ。