美術館で先前みた白山松哉の蒔絵の文台と硯箱の印象が、いつまでもあざやかに残っている。多くのすぐれた作品をみる際には、それらのなかで最もすぐれた逸品の印象だけが残り、その他のものはあとかたもなく消え去ってしまう。ここに芸術のはげしさをみる。焼きつくように強く印象される作品の、内面に深い光をたたえた「形像」の美しさは、いつまでも心から消え去るものではない。そのような逸品の前には、他の優秀な作品の「形像」は、月明に群星光を消すように影も形もとどめず、跡かたもない。ここに芸術の恐ろしさがある。すぐれた作品は劣つた作品をくってしまう。これが芸術の厳粛な事実である。そしてまた、たとえ世の人は認めなくても、まことの「傑作は作者をたたえる」ものだ。
白山松哉は蒔絵においては、「恐らく古今を通じての第一人者で、彼の右に出ずるものは一人もない」と、明主も評している名人である。そしてこの人の描く渦巻はなんともいえないものであつたという。じつと思念をこらして、なにもしない幾日もがつづく。そして一気に描く緊張の一線は、まねようとしてもまねられるものではなかったという。
正確に直線なり円なりを描くには、定規なりコンパスをつかったらよさそうなものである。しかしそれは正確であっても、単なる平面の線にすぎない。名人の描くところのものは立体の線である。目標をじっとみつめて手もとに狂いがなく、さっと一気に描く緊張の一線は、まねようとしてもまねられるものではない。セザンヌのことばに、一つの林檎でもなんでも、物体はすぺて立体においてある。されば常に立体の焦点をとらえよと。絵画の線の秘密はここにある。芸術の秘訣や神秘に眼を開くものは、ものを深さにおいてとらえ、その秘密の焦点を発見するであろう。
いつか吉川英治氏が、宮本武蔵の「枯木寒鵙<きん>図」(細川家蔵、ここの美術館には「達磨」の絵がある)について、新聞に書いていたのを読んだことがある。冬の水辺に一本、すつと伸びた細い枯木に鵙<もず>が一羽とまっている図である。その枯木の描き方である。下から上へさっと描き上げ、返し筆で上から下へ描き下げてある。その上下の筆が下から三分の二あたりのところでぴったり吻合<ふんごう>しているのである。それは匁をガッキとうけとめたときのように気魄がある。はじめは全く気づかなかったが、その時、はじめて迫力の一線の秘密がわかったという。名人の作の非凡であるのは、こういうところにある。
さて神仙郷の茶室と庭園であるが、ここにもそのようなものを見いだすのである。茶室をば「山月庵」と名づけてある。これは日本で一、二といわれる茶室専門の有名な大工、木村清兵衛(当時八十歳)が、一世一代の心組みで、入念の仕事ぶりで心血をそそいで、三年がかりで仕上げたものである。清楚にして閑寂、落着きのある茶室である。
京都には名ある茶室が多い。かつて千利休が草茨の奄に模して作ったもので、
茶の侘びの境涯をあらわしている。「見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮」の境地である。茶道・生花はながく国民の生活様式を律してきた生活芸術である。中世以来、生活のなかにながく生きつづけてきた伝統の様式美の精神は奥深いものである。しかし現代の金持の茶室は、名ある茶室の写しが多いという。模写にすぐれているものは一つもない。それは単に形を模して、その制作の祕密をとらえていないからだ。よしその祕密を看破しえても、それにまねようとしてまねられるものではないからだ。この清兵衛の茶室、山月庵も日本美術を中心とする美の小天国にはなくてはならないものである。
明主が茶室をつくるにいたつた動機は、つぎのようである。やがては日本独特の建築美を、世界に紹介しなけれはならない日が、必ずくると考えたからである。昭和二十一年の春、当時、進駐していたスミス代将をはじめ数人の高級幹部が、茶の湯をぜひ見たいというので、熱海の東山荘の茶室を提供したことにも刺戟されたからである。外国人に日本の茶道を紹介し、茶道を国際化する目的である。
つぎに庭園である。明主の計画では、今までにない新しい様式の庭園美を生み出すつもりで、一木一石といえども全部、明主の指図によつて構成されたものである。というのは、今までの庭園は新時代の感覚に適合しないからである。したがって、昔からの名園に比して、この神苑のような型破りのものは恐らくあるまいと、自負されている。
明主は向島の佐竹侯の石造りの庭園、早稲田の大隈侯爵の庭園、小石川の後楽園、駒込の六義園、柳原の蓬莱園、小石川の植物園、浜離宮、新宿御苑をはじめ、京都の桂離宮、修学院、それから横浜の三溪園、高松の栗林公園、岡山の後楽園、金沢の兼六公園などをみてきたが、どれもこれも思うようなものは見あたらなかったという。どれも昔のお大名式のものばかりで、神仙郷のように珍しいものは一つもない。特に奇巖怪石の豊富な点では、恐らく日本一であらうと。
いったい庭園は足利初期頃が最盛期で、豊臣時代に小堀遠州によって大成したので、それが今日も京都に相当のこっている。つぎに徳川時代に入って、今も各地に残るお大名式庭園と、千利休によってはじめられた茶庭の形式である。西洋の庭園は幾何学的花壇式のもので、これも現代の感覚にはピッタリこないうらみがある。建築の方は相当、進歩しているのに、庭園の方はよほどたちおくれている。こういうわけで、神仙郷の庭園は今までにない新様式のものである。造庭について明主は、「私は神示のまま、それぞれの配置や岩組をなしつつ、昔からの庭園としての約束を破り、型にとらわれず、全然、新しい形式で造ったのである。樹木にしても、それに相応すべく、色々の種類を集めてよく調和させ、滝や溪流にしても、できるだけ自然の味を出しながら、山水の美と庭園の美とを組みあわせて自然の芸術の高さとよさとを充分にだそうとしたのである。」と。
それから特記すべきことは、箱根全山のうちで、最も巖石の多いのは強羅であり、そして強羅の中央にある神仙郷は巖石の集中地点で、このあたりの地を掘れば、巨巖累々としている。しかも岩石の種類は多く、庭園を造るとしたら、お好み次第である。その主なものをあげれば、灰色で鋭角のあるすこぶる硬質のもの、青黒味がかった灰色で、硬度のやや低く、皺や刻みの多いもの、赤色黒で木風の熔岩的のもの、褐鉄色で多角的な硬質のものなどである。いずれも早雲山の爆発の際、流下したものである。
庭園の岩はみな掘りだしたもので、種類や形状が豊富で、珍しい「岩の庭」をなしている。その一部である「竹の庭」は大岩に数十本の孟宋竹を配し、全面に浜石をしきつめてある。岩と竹と石の配合の妙趣もすばらしい。しかしこれは一幅の唐画である。「苔の庭」(面積三百四十坪)は、全国の大、中教会・支部や信徒個人の寄進による百二十五種類の苔を移植してある点、京都の西芳寺(苔寺)の苔庭の先例があるから、必ずしも独特のものとはいえない。苔寺のは池をめぐる回遊式で、はるかに規模が大きいのである。京都の竜安寺には「虎の子渡し」の異名がある石庭があるが、神仙郷の岩庭とは全く趣を異にする。そういう点で、この岩庭はわが国唯一のものであるのも奇観である。