五月十九日に密葬。

 そして、昭和三十年五月二十一日、渋井總斎の葬儀が、自ら信徒の宿泊施設として建てた熱海・咲見町道場で執り行なわれた。午前中の明主様百日祭に続く悲しみの儀式である。渋井總斎の功績を讃える世界救世教の教団葬であった。二日前の密葬の折、二代教主様が總斎の遺骸の納められた柩の先を歩まれ、そして霊柩車を悲しみに耐えて見送られたお姿があざやかに信徒たちの脳裏に甦る。

 その葬儀場に元教団顧問である堀川辰吉郎が突然姿を現した。この時教団と堀川は東山荘をめぐる裁判で係争中であることから、その出現に管長をはじめ教団幹部は驚愕した。しかし、弔問客をまさか追い返すわけにはいかない。

 みながそれぞれの座に着き葬儀が始まった。
「しぬび」が終わり二代教主様の弔歌二首が朗詠される。

 そして教団関係者の弔辞が延々と続いた。やがてそれらの弔辞も終わり、司会者が式次第を進行させようとした時、それまで静かに座していた堀川がやおら立ち上がり、祭壇の前に歩み寄って弔辞を述べ始めた。予定になかった行動に司会者も戸惑い気味であったが、葬儀場から溢れんばかりの参列者の前では阻止することもできず、成り行きを見守るほかなかった。突然の弔辞に、参列者は戸惑いの色を隠せなかった。堀川のあげる弔辞は、ある時には高らかにある時は低く、その内容と格調の高さによって場内を圧した。初めてあちこちから鳴咽、すすり泣きの声が起き、多くの参列者が涙した。堀川は總斎の死を心底から誠実に悲しみ、その生前の徳と教団での事績を涙ながらに讃えたのである。そして、 
「先生」
 堀川は突如声を張り上げ總斎の遺影に向かって呼びかけた。
「教団が今日のような隆盛を見ることができたのは渋井先生のご功績、数々のご苦労のおかげです。しかしながら……」 
 堀川は毅然とした態度で続け、
「教団におられるより、神界におられる明主様のみ許で御用をなされることが、何より先生の幸せでありましょう」 
 と弔辞は結ばれた。葬儀場内はこの弔辞に賛意を表すかのように一段と参列者の鳴咽が高まった。弔辞を述べ終えた堀川は、祭壇の遺影に向かい深々と一礼して会場を去っていった。 葬儀は無事終了した。

 戒名は、
 “大観院殿總覚伝光大居士”
 遺骨は菩提寺である新宿の曹洞宗永平寺派四谷山長善寺(通称・笹寺)に祀られている。二代様は次の挽歌二首を霊前に供えて、その冥福を祈られた。

 師の君の御供仕<おんともつか>ふる君ならし 守らせ給へ幽世の神

 清濁をあはせのむてふ人の世に 稀なるみれば君の惜しかり