高天原<たかあまはら>に神留<*1かむづま>り坐<ま>す 皇親神漏岐神漏美<*2すめらがむつかむろぎかむろみ>の命以<みことも>ちて 八盲萬神等<*3やおよろずのかみたち>を神集<かむつど>へに集<つど>へ賜<たま>ひ 神議<かむはか>りに議<はか>り賜<たま>ひて 我<*4あ>が皇御孫命<すめみまのみこと>は豊葦原<*5とよあしはら>の水穂国<みずほのくに>を 安国<やすくに>と平<たいら>けく知<し>ろし食<め>せと 事依<*6ことよ>さし奉<まつ>りき
大意
高天原においでになる男女二柱の御親神様のお言葉によって、八百萬の神々様をお集めになり、会議をお開きになって、ご相談された結果、その最愛の御孫の神様に、地上統治をお任せになることになった。その地上は、葦が乱れ茂り、悪の横行している世界ではあるが、やがてこの神様によって、みずみずしい稲穂がみのり、人びとが心楽しく平和に暮らせるようになるだろうとの期待をもって、お任せになったのであった。
*1神留<かむづま>り坐<ま>す
「神留り坐す」の「神」は、「神集へ」「神議り」などにみる「神」と同じく、神の為されることに敬意を表わした一種の接 頭語である。「留り坐す」は、おいでになる、鎮まりますということである。
*2皇親神漏岐神漏美<すめらがむつかむろぎかむろみ>
「すめら」は統一するとか、または心が澄み清浄であるということで、すべてを統<す>べ治め、また、心が澄んで、先きの先きまで見通される神の形容であり、「むつ」は睦まじい和の徳を表わし、親しみ仰ぐ慈悲の持ち主と仰ぐ言葉である。そして、その神の御名が、天津祝詞の項において解説したごとく、神漏岐、神漏美の男女二神であり、高皇産霊神<たかみむすぴのかふ>と神皇産霊神<かむみむすぴのかみ>と考えられるのである。この「むすび」に産霊という文字を当てるのは、「び」は「霊」であり、霊力すなわち神のお力を示し、「産」は生を産みだし造り出す力、つまり、生生化育を意味するのである。生生化育の根本の力を持たれる最高の親神様が、むつまじく相許し、相親しまれることを尊称したのである。
*3八百萬神<やおよろずのかみ>
「八」は「弥<や>」で、いよいよたくさんの神々ということである。神道における慣用語で、いまさら注解を必要としないが、明主様はよく『一神にして多神』ということを仰せられた。一なる神より、みずからわかれて陰陽の二神となり、それより多くのお子が生まれられて多神となる。だが、この神々は相互に抗争する神神ではなく、ひとつの理想によって結ばれ、その理想とは地上天国建設であり、そのために、協調する神々であるから、数は多であっても、親神のお言葉により直<ただ>ちに集合し、会議をもたれたのである。しかも、「神集へに集へ賜ひ、神議りに議り賜ひて」と繰り返してあるのは、いくたびか集まり、何回も協議されて、すべての神々が納得し、同意して、地上の統治者を決定されたということを示している。
*4我<あ>が皇御孫命<すめみまのみこと>
「我が」とは親愛の情を表わす言葉であり、「御孫命」は「御真子命」で、最愛の直系のお孫ということである。通説では瓊々杵命<ににぎのみこと>様となっている。
*5豊葦原<とよあしはら>の水穂国<みずほのくに>
いまだ開拓されず、葦がいっぱい生い茂っているが、みずみずしい稲穂が豊かに稔る土地ということで、日本を指している。葦はまた「悪<あし>」にかけて、その地上には悪が横行しているさまを、葦が乱れ茂っているということで示唆したものとも考えられる。
*6事依<ことよ>さし奉<まつ>りき
事依さしの「こと」はおそらく言葉のことであって、言葉で命じ委任するということである。
要するに、この一章は神霊界において計画され、立案されたことを、現象界にうつすために選ばれたる神人の地上ご出現を説明した、つまり、「霊主体従」という本教教理のひとつの型を示すものと、解することができるのである。