世の中の不幸も幸福も、戦争も平和も、その動機は善か悪かである。一体どうして善人もあれば悪人もあるのであろうか。この善悪のよってくるところの、何か根本原因がなくてはならない。
人は善人たることをこいねがい、悪人たることを嫌うのは当り前である。平和も幸福も悪ではうまれないことを知っているからである。では善人、悪人とはなんであろう。善人とは「見えざるものを信ずる人」であり、悪人とは「見えざるものは信ぜざる人」である。したがって見えざるものを信ずる人とは神仏の実在を信ずる人であり、見えざるものを信じない人は無神論者である。 いま人間が善を行う場合、その意念は愛からであり、慈悲からであり、社会正義からであり、大きくみれば人類愛からである。つぎに悪事を行う者の心理は、全く神仏の存在を信ぜず、利慾のため、人の眼さえごまかせば、いかなる罪悪を行うもかまわないという虚無的思想からであり、他人を苦しめ、人類社会に禍をおよぼすことなど、全く考えないのである。
このように人の眼さえごまかせば、どんなことをしても知れないということであれば、できるだけ悪事をして、栄耀栄華に暮す方が得であり、利口であるということになる。また死後、人間はゼロとなり、霊界生活などはないと思う心が悪を発生することになる。
しかし世の中にはこういう人もある。悪事をしようとしても、もしかやりそこなって世間に知れたら大変だ。信用を落し、非常な不利益となるから、という保身的観念からもあり、悪事をすればうまいこととは知りながら、意気地がなくて手をだしえないという人もあり、また、世間から信用をえたり、利益になるという観念から善を行う功利的善人もある。また、人に親切を行う場合、こうすればいずれは恩返しをするだろうと、それを期待する者もあるが、このような親切は一種の取引であつて、親切を売って恩返しを買うというわけに
なる。
このような善は、人を苦しめたり、社会を毒したりするわけではないから、悪人よりはずっとよいが、真の善人とはいえない。まず消極的善人とでもいうべきであろう。したがって、このような善人は、神仏の眼からみれば真の善人とはならない。
これらの人に反し、見えざる神仏を信ずる人は、人の目はごまかしえても、神仏の眼はごまかしえないという信念によって、どんなうまい話にも決して乗らないのである。故に現在、表面からみれば立派な善人であっても、神仏を信じない人は、いつ悪人に変化するかわからないという危険性をはらんでいる以上、やはり悪に属する人といえよう。
かくて真の善人とは、信仰あるもの、すなわち見えざるものを信ずる人にして資格あり、というべきである。故に現在のように道義的観念のはなはだしい頽廃を救うには、信仰以外にはないと思うのである。
「弱き者よ、汝の名は悪人なり。」悪いと知りながら、おさえることのできないのは、おさえつける力、すなわち真の勇気が足りないからである。この勇気こそ人間の最も尊いものである。私は常に人間は向上すれば神となるということをいうが、この悪いことと知れば、それをピッタリ制御してしまつて、悪には絶対負けないという心の持主こそ、その人は立派な神格者となったのである。全くこの力こそ真の力で、こういう力が本当の観音力である。
つくづく今日の世相を見るに、悪い奴があまりにノサばりすぎている。それがため、善人がどんなにしいたげられ、苦しめられているか、これは誰も知るところであろう。
私は昔から一つの主義を堅持している。それは善人は悪人に負けてはならないということで、悪よりも強い善が真の善と思うからで、事実、善人が悪人に負けるから悪人がのさばるので、それが社会悪を根絶できない最大原因である。そのため、悪人はそれをよいことにして、ますます爪を伸ばし善人を苦しめる。
一言にしていえば、社会悪の原因は善人が弱いからである。とすれば、弱い善人は真の善人ではない。実は意気地なしである。悪に対する憤激が足りないからで、いわば消極的善人で、このような善人がふえたところで、善人自身は悪をする勇気がないから、その点はいいとしても、悪ののさばりを許すところの自己安全のみを願う一種の卑怯者である。わかりやすくいえば、悪人どもはどうしても善人にはかなわない。善人という奴は実に強い、始末が悪い、悪人ではいくら骨を折ってもだめだから、いっそ悪人をやめて、善人の仲間へ入る方がよいというようになれば、社会悪は激減し、住みよい明るい世の中となるのである。
つくづく現在の世の中をみると、どうも今の人間は、悪に対する憤激があまりに足りないようだ。たとえば悪人に善人が苦しめられている話など、聞いても興奮する人は割合に少ない。察するに、悪に対しいくら憤激したところで仕方がない。しかも別段、自分の利害に関係がないとしたら、そんな余計なことに心を痛めるより、自分の損得に関係のあることだけ心配すればたくさんだ。それでなくてさえ、このせちからい世の中は、心配事や苦しみが多すぎる。だから見てみぬふりをする。それが利口者と思うらしい。しかも世間はこういう人をみると、世相に長けた苦労人として尊敬するくらいだから、それを見習う人も多いわけである。
これらは社会的正義感の欠乏が原因であるにちがいないが、なんといっても、いわゆる利口者が多すぎるためであろう。しかしよく考えてみると、そういう社会になるのも無理はない。いつの時代でもそうであるが、殊に青年層は正義感が旺盛なもので、悪に対する憤激も相当あるにはあるが、まず学校を出て一度社会人となり、実際生活にぶつかってみると、意外なことがあまりに多く、だんだん経験をつむにしたがって、考え方が変ってくる。なまじ不正に興奮したり、正義感など振りまわしたりすると、思わぬ誤解をうけたり、人から敬遠されたり、上役からは煙たがられたりするので、出世の妨げともなりやすいというわけで、いつしか正義感などは、心の片隅に押し込めてしまい、実利本位で進むようになる。こうなると、ともかくも一通りの処世術を会得した人間ということになる。
これらももちろん悪いとはいえないが、こういう人間があまりふえると社会機構はゆるみがちとなり、頽廃気分がみなぎり、堕落者、犯罪者がふえる結果となる。現在の社会状態がそれをよく物語っているではないか。そうして私の長い経験によると、まず人間の価値をきめる場合、悪に対する憤激の多い少いによるのが、一番まちがいがないようである。なんとなれば、悪に対する憤激の多い人ほど骨があり、しっかりしているわけだが、しかし単なる憤激だけでは困る。ややもすれば危険をともないがちだからである。事実、青年などが、とかく血気にはやり、人に迷惑をかけたり、社会の安寧を脅かすことなどないとはいえないからで、それにはどうしても叡智が必要となってくる。つまり憤激は心の奥ふかくひそめておき、充分考慮し、無分別なやり方はさけるとともに、人のため、社会のため、正なり善なりと思うことを正々堂々と行うべきである。
このようなわけで、理想としては不正に対し、憤激が起るくらいの人間でなくては役にはたたないが、ただそれをあらわす手段方法が考慮を要するのである。すなわち、いささかでも常軌を失したり、人に迷惑をかけたりすることのないように、くれぐれも注意すべきで、どこまでも常識的で、愛と親和に欠けないよう、神の心を心として進むべきである。