四 一葉の松葉

 中国の絵画は宋元時代のものが最も傑出しているという。なかでも牧谿、梁楷、馬遠などの墨絵は特にすぐれているといわれるが、それらの名品が箱根美術館におさめられている。その馬遠の「高士観月」の前にたつ。「月光蒼く幽谷に籠め、懸崖の松樹天に冲するあたり、月夜の賦を誦する声、朗々と聴えるのは、高士の月に吟懐をやるのであろう。全幅の画趣まことに気韻に満ち、観者をして自ら遊神自適せしむるものがある。

 一葉の松葉の散るは静中の動か!」と宋元名画集の解説のことばがしるされている。

 ある人が「一葉の松葉の散るは静中の動か!」というところが肝心だそうですよ。と館員に注意されて、再び眼を画面にむけたとき、名月と高士の眼とのあいだに、一葉の松葉の散るあるをみて、はっと驚いた。この絵はいままで何回となく見てきたのであるが、一番大事な一葉の松葉を見落していたのである。その重大なポイントを知ってみれば、なるほど全幅の画趣まことに気韻にみちて深く味わえてきてはじめて美術の神秘にふれた思いであったと。書きしるしているのをみて、興深く思った。

 このようなところに、明主が美術館を建設したねらいがある。「宗教本来の理想としては、真善美の世界を造るにある。真と善とは精神的のものであるが、美の方は形で表わし、眼から人間の魂を向上させるのである。」そうして「美術品はできるだけ大衆に見せ、楽しませて、知らず知らずのうちに人間の心性を高めることこそ、その存在理由といえるであろう」と。

 西洋でもギリシャ、ローマの昔から中世頃まで、日本でも聖徳太子以来、鎌倉時代までは宗教芸術がさかんであった。そして宗教は芸術の母胎であったが、現代にいたっては、宗教と芸術ははなればなれになってしまった。しかし宗教と芸術は車の両輪のようでなければならない。

 世界の国々はそれぞれ独自の思想文化をもっているが、日本は世界に対して、自己の特殊的役割を自覚し、全人の福祉に貢献すべきである。そういう意味で日本は実によって世界人類を楽しませながら、文化の向上に資することである。すなわち平和的芸術国家とならなければならない。それは日本の山水美が秀でていて風光明媚であること、日本人の鋭い美の感覚、手技のすぐれている点などでもわかるはずである。これによっても、今後、日本の進むべき道は、日本は美の国、世界のパラダイスたらしめるにあると考える。その具体的方法として美の小天国をつくって天下に示すことを企てたのである。そこで救世教の目標である地上天国、真善美の世界をつくるとしたら、美が必要であるのはいうまでもない。真と善は精神的のものだからいいが、実は物質によつて具体的にあらわさなければならない。したがって天然美も人工美にともなわなければならない。それには美術館をもつくることである。こう考えて、交通の至便、山水の美、温泉あり、気候風土もよい箱根と熱海の景勝の地をえらんで天然の美と人工の美を組みあわせた理想的芸術境をつくり、美術館を附設したのである。

 この美術館は規模は小さいが、内外の美術館に対して模範的なものをつくろうと考え、建築や設備から庭園にいたるまで、すべて明主の設計と苦心になるものである。ところであまり人の気ずかないことだが、日本には日本美術館は一つもないという意外な事実である。国立博物館は歴史的、考古学的のものが多く仏教美術が主になっている。またプリジストン美術館は洋画美術館であり、大倉集古館は中国美術、根津美術館は茶器類と中国銅器、京都博物館は寺院美術、有鄰館は中国美術、住友美術館は中国銅器大阪の白鶴美術館は中国の鋼器と陶器、岡山の大原美術館は西洋美術というようなわけである。かく個人美術館は中国美術、西洋美術が主であるから、真の意味の日本美術館はなかつたのである。これでは日本人でありながら、日本美術が見られない。これはさびしいことだと明主は考えて、箱根美術館は日本独得の美術に力を注ぐことになつたのである。このように日本美術を主眼とした美術館は、日本はおろか、外国にはないから、現在は世界一といつても過言ではない。

 今までの美術館は巨万の富をえた立志伝中の人たちが、数十年にわたってあつめた美術品を、財産保護のためと、名誉心を満足させるためにつくったものである。そして春秋二季の短期間、一部の人に見せるだけだから、明主の意志とは根本的に異っている。美術品は死蔵したり、独占すべきものではなく、一人でも多く見せ、楽しませ、人間の品性を向上させることこそ、文化の発展に寄与するし、それが芸術としての真の使命であると考え、民主的に開放し、常時公開して民衆を楽しませて美術の社会化をはかっているのである。それが芸術の生命を生かすゆえんだからでもある。

 さらに将来、観光外客も続々、日本へくるであろうし、箱根へ立ちよらない外人はないと思うから本美術館も必ず観覧するであろう、その点で日本文化の地位を向上させるとともに、日本の名物の一つともなるであろう。

 箱根美術館の所蔵品は総計千点をこえるのであるがこれらはほとんど終戦後わずかな期間に、しかも全く奇蹟的に集ってきたものである。その上、明主がみずから選択したものであるが、一つの偽物も、一つのつまらないものもなく、どれもこれも天下の逸品ぞろいであるのは、専門家のひとしく驚嘆しているところである。そのうち重要文化財──昔のいい方では国宝──に指定されたものだけでも二十点もあるのだから、どんなに素晴らしいものであるかがわかるであろう。そして準国宝ともいうべき重要美術品は四十七点もあるのである。そうして今後、逐次重文や重美に指定されるはずのものもずいぶんあるのだから、おどろくばかりである。

 明主もいうように、まず買いはじめたのが終戦直後からであった。なにしろ日本はかつてない世の中の変り方で、誰も知るように、華族や富豪や財閥などの特権階級がいっぺんに転落してしまったのであるから、たちまち経済的苦境におちいり、大切に秘蔵していた先祖伝来の家宝である書画骨董の類を手放さなければならなくなったからである。したがって珍什名器がずいぶんでたが、値段もやすかった。なにしろその頃は食うことがさきで、骨董品などに目もくれるものなどは、ほとんどなかったからである。 その上、特権階級は巨額な財産税を課せられたのであるから、どうしても手放さなければならない窮地に追い込められた。そこで泣く泣く売りはらったのであるから、こっちでも助けるつもりで値切らず、ほとんどいい値で買ったものである。

 こういう具合で、ボツボツ集ってきた。若い頃から美術は好きではあったが、鑑識の方は素人の域を脱していなかったうえに、買った経験もなかったので、相場もわからず、ただ見て、気に入った物だけを買ったのである。それで全部、買いそこないがなかったのであるから不思議である。これは美術館を見た専門家の人はみなほめている。どんな美術館をみても、どうかと思う物が相当あるものだが、この美術館には屑がない、逸品ぞろいだというのである。

 そうこうしているうち、だいぶ集り、だんだん眼がきくようになつたので、いずれは美術館をつくらねばならないと思いはじめた。それからは不思議と、その目的にあったものが、予想外に集ってきたので、これも神慮だと思った。

 たとえば蒔絵専門の道具屋が、不思議と思うくらいの上等な蒔絵物を、つぎからつぎへともってくる。こっちも驚いたが、道具屋も実に不思議だと首をかしげていた。しかも時が時とて、素晴らしい物が驚くほどやすく、しかもあれだけのものが、わずか半年ぐらいで集ったのである。

 特に希世の名人、白山松哉の蒔絵が数点も集った。なにしろこの人の作品は、今日ではもうほとんど売物にでないくらいで、いかに品物の少いかということと、所持者がどんなに珍重して手放さないかということがわかるのである。それから琳派物と仁清の陶器であるが、これなどもどんどん高くなるばかりか、もうほとんど売物もなくなってしまっている。それも終戦直後のドサクサまぎれに、すこぶるやすく、かなり数多く手に入ったのである。有名な広重の東海道五十三次の初版のものなら、いつでも買おうと、あか道具屋に話したら、その翌日もつてきたので驚いた。すると道具屋も、こんな不思議なことはありません。昨日、家へ帰りますと、ある人がこれをもってきたのでびっくりしました。私はこれは四十年前から心掛けていたのですが、昨日、お話をうけたまわって帰るとすぐ、これを売りにきたのですから、どう考えても不思議でなりません。といっていた。

 こんな具合で、容易に手に入らないような名品が、こんなに沢山しかも割合やすく集ったのだから、全く不思議と思うよりほかに考えようがない。ぜひ欲しいと思うが、とても手に入りそうもないと思ってあきらめていたものが、ひょっこり入ってくることがよくある。それが全く予想もつかないようなところからなので余計びっくりするのである。とのことであつた。

 それではどんなものが集ったか、すこしあげてみよう。いま重要文化財に指定されているもののうちから、主なものをあげてみる。江戸初期の「湯女国」は紙本着色で肉筆浮世絵の中でも代表的なもので、一般の観覧者のあいだでも非常に人気がある。藤原時代の「法華経」や、天平時代の「木彫観音立像」は白檀に彫刻したものだが、これはなかなか素晴しいものだ。また「翰墨城」というのがある。これは江戸時代の初期に編纂された手鏡である。これには聖武天皇から鎌倉時代までの諸名家の古筆が三百数十葉もおさめてあって、たいしたものだ。

 鎌倉時代のもので、藤原信実筆と伝えられる「佐竹本三十六歌仙、平兼盛」もある。桃山時代の海北友松筆の「楼閣山水国屏風」は六面一双の有名な逸品であるが、その神韻高雅な画趣はただ圧倒されるばかりだ。おなじ時代の「洋人奏楽図屏風」も六面一双であるが、これは初期洋画のなかで、特にすぐれたものである。
 中国のものでは、唐時代の「樹下美人図」がある。これは紙本着色で、その頃の風俗画としては珍しいものである。なにしろ年代の古いものだからところどころに絵の具の剥落があるが、それがかえって古雅な趣を呈していることと、唐画の特性たる一見、古拙な筆致も大陸的におおまかで面白い。また宋時代の馬遠筆と伝えられる「高士観月図」と「山水図」は絹本着色であるが、実に気品のたかい風雅な趣がある。馬遠の子の馬隣筆の「寒江独釣」の江辺に糸を垂れた風趣は見ていてあきないものがある。「墨定窯<ばくじょうよう>金彩鉢」は宋時代のものだがこれは世界的絶品といわれている貴重なものだ。そのほか、元時代の高僧である楚石、梵琦筆の「墨蹟」も珍品としてあげておく。

 つぎに重要美術品に指定されているもののなかからあげてみよう。まず古いところでは、天平時代の「光明皇后法願経」がある。藤原時代の「石山切」は伝藤原定信筆の古筆である。鎌倉時代の「木彫阿弥陀如来立像」や「木彫聖徳太子二才像」などの木彫もよいものだ。桃山時代の「花見鷹狩国屏風」もすぐれている。

 江戸時代のものではつぎのようなものがある。本阿弥光悦作の「樵夫蒔絵硯箱」はさすがに精巧を極めたもので、蒔絵という工芸美術の端麗さを遺憾なく発揮している。酒井抱一筆の「雪月花」は三幅対の故事を見立てた美人画で、なかなか親しみをおぼえる作品だ。また岩佐又兵衛筆の「官女」と「伊勢物語」や勝川春章筆の「婦人風俗十二ケ月」(十幅)など興味ふかい。

 陶器には「古九谷酒宴図大皿」や「鍋島桃花図大皿」などをはじめ、逸品を相当多く蔵している。中国のものには、宋時代の「青白磁蓮華大皿」や明時代の「金襴手瓢型瓶」など、また特殊な味いをもっている。

 このほかに、まだ指定をうけていないが、野々村仁清作の「金銀筋重茶盃」や楽長次郎作の「茶盃銘あやめ」はいずれも、桃山時代から江戸時代にかけてのもので、茶人垂涎の的<まと>である。

 中国のものではつぎのものがある。無準禪師の墨蹟「帰雲」は南宋時代のものである。宋時代の画僧牧溪の「翡翠、鶺鴒<ひすいせきれい>」の双幅と梁楷の「寒山拾得<かんざんじっとく>」は有名なものである。さらに世界一といわれる「越州窯<えっしゅうよう>頭壷」は六朝時代のものである。 さて三越で催した浮世絵展覧会で一般にしたしまれた浮世絵である。そのうち肉筆浮世絵は外国にはほとんど流出していないものであるが、当館には珍品を多く蔵している。まず岩佐又兵衛作と伝えられる「山中常磐物語」「掘江物語」「浄瑠璃姫物語」はそれぞれ十二巻ずつの尨大<ぼうだい>な絵巻物である。そのほか江戸時代初期の
「機織<はたおり>図屏風」や、宮川長春の「柳下腰掛美人」や、鈴木春信の「井手の玉川」「玄宗皇帝楊貴妃」「宝引き」や、喜多川歌麿の「寒泉浴」や鳥文斎栄之の「円窓九美人」や葛飾<かつしか>北斎の「軍鶏<しゃも>」「二美人」などみてゆくに浮世史をたどるようで興味はつきない。

 浮世絵版画では、初期のものはもちろん、春信の世界的名品といわれる「機織り」や、歌川豊国の「役者舞台立姿絵」もあるし、さらに、日本に三組しかないといわれる北斎の「富嶽三十六景」(四十六枚揃)もあるのだ。

 現代作家のものでは、竹内栖鳳の「鯛」「竹に雀」があり、白山松哉の「八角蒔絵重」や、佐藤玄々の木彫「観音」「猫」があり、板谷波山の「青磁鯉耳花瓶」などがある。かく美術工芸の各方面にわたって、ひろく集められているのをみても、この美術館の文化的価値がどんなにたかいものであるかが想像されるであろう。

 さてここを何回訪れたことであろう。いつきてもしたしく、あたたか味を感ずるのは、館員がやさしくしとやかで、たいへん丁重で懇切であるからだ。部室に入ってゆくと、一々ていねいにお辞儀をする。いこいの椅子にしばらくやすらぐ人々には、お茶をもってきてくれる。それはなぜであろう。どの人も深い信仰と愛に生きる信徒だからである。このような館員によってのみ、このような芸術の逸品はやさしくていねいに奉仕さるべきであろう。 美術館は美しい。なかに収められているものは、美術の永遠の生命をもった不朽の名作、逸品ばかりである。そしてここの大勢の女子館員は心やさしい人たちばかりである。これこそ、ほんとうに理想的な「美の館」というべきものであろう。窓外かすかに竹の影がさゆれる。