三 真善美の世界

 神の目標であり、かつ救世教の建設しようとする地上天国は、真善美まったき理想世界である。ここに真とは真理の具現ということである。ところが現在の社会において、人間はただ生きるために、アグセクはたらいているばかりで、そこにはなんの希望もなく、生きているだけである。病苦、生活苦、戦争の脅威のなかにうごめいている。人間は獣物のように食いあい、いがみあい、衝突して、不安焦燥の渦巻のなかにあえいでいるさまは、さながら地獄絵巻である。それであるにかかわらず、文化の発達した文明の世界と信じ、かつ讃美しているのである。これがはたして真理を具現した世界であるといえるであろうか。

 救世教は病貧争の人間の三大苦をなくした幸福な世界を実現しようとする。三大苦のうちで特に病苦は根本のものである。現代の医学は発達した。進歩したという。しかるに病人は一向にへらないし体質は低下して病気に犯されやすいのはどうしたわけか。ねがうところは病人が減り、健康人がふえればいいのである。人間は健康であるのが真であるから、病人には真がない。健康をそこねるということは、もはや人間本来のありかたではない。病気のため、人間としての働きができないとすれば、無用の存在となつてしまうから、それを治す。それが救世教の神霊療法である。

 善とはなにか、悪の反対である。神を知り、神をおそれ、神とともにある者には善はあるが悪はない。真善美は神とともにあるものであるが、悪は神とともにない。神を認めず、神をおそれないところから悪はうまれる。悪は無神論から生ずるものである。無神論は唯物論から発生したものである。唯物論にたつ科学も、神を否定するから悪の根源である。科学の功績は認むべきであるが、唯物的な科学思想のうんだ無神論は、神を知らぬ者、神をおそれぬ者、宇宙根源の大愛の精神を解さないものとして、人類の破滅に直面させていることはすでに述べた。そして、人にして善がなく悪だけを行うとすれば、これは真の人間ではなく動物である。人間は善を行うのが真であつて、悪を行うのは人間の正しいあり方ではない。

 文化の発達につれて美の要素は大いに発達したが、大衆はなんら美の恵みをうけていない。一部の特殊階級だけが、美衣、美食、美邸に恵まれているが、庶民階級はやっと食っているだけで、美どころのさわぎではない。身体を包むだけの衣服、腹をみたすだけの食物、寝るだけの住居がやっとのことである。これで美が真に具現された社会といえるであろうか。これでは神の恵みである山水、花卉などの自然美はもとより、人間が作った芸術美(美術工芸・演劇等)も楽しめない社会である。これほど文化が発達しながら、人類全体がその恩恵に浴せないとしたら、現代は全く金持の天国、貧乏人の地獄である。この欠陥を是正して、公平に幸福が享有されてこそ、真の文明世界であって、そのような世界を建設することが救世教の使命である。

 これら真善美を社会に実現することが、この世界を天国化する根本条件である。神霊療法による病気治しも「生命の芸術」であり、無肥料裁培法による農耕法の改革も「農業芸術」であり、地上天国の模型を造るのも「美の芸術」である。このようにあらゆるものが芸術化されなければ、真の天国とはいえない。真の天国は芸術の世界であるからだ。そして、右の三つの芸術の合体によって、真善美の三位一体の光明世界が造られるのである。

 さきに現在までの社会は真善美が実現されていないといったが、なぜ実現できなかったか。それを実現するのが救世教の使命であるといったが、それはどうして実現できるかということである。それには理由がある。

 さきにもいったように今までは、夜の世界で、無明暗黒であったから、人間は秘密や罪悪が行いやすい。そこで人をだましたり、苦しめたり、争いをしたりするのである。ところがこれからは昼の世界になりつつあるのだから、一切が見えすくようになり、かくしごとができなくなる。自然、人間は悪に趣味をもたなくなるから、人間の楽しみは善にむかい、美に転じてくるのである。芸術の楽しみはもちろん、建築も市街も、劇場や娯楽施設も、住居の装飾も人々の服装も、美くしくなつてくるのである。そして人々の生活が芸術生活のなかに楽しみを見いだすようになるから、天国は芸術の世界になるのである。

 神様の目標は、真善美の世界を造るにあるに対して、悪魔の目標は、偽悪醜の世界を造るにある。ところが人々は案外に醜のよくないことに気づいていない。

 たとえばことさらに粗衣粗食、茅屋<ぼうおく>に住み、最低生活をしながら善事をする人、禁欲生活をする宗教家など自他ともによいことと考ているが、これは美を無視している。つまり真善醜である。人間の衣食住は分相応にできるだけ美しくすべきで、それが文化的でもあり、神様の意志にもかなうのである。美は自分だけの満足ではなく人にも快感をあたえるから、一種の善行ともいえる。

 いったい社会が文明化するほど、あらゆるものが美しくなるのが本当である。文化の発達は一両、美の進歩である。個人も家庭も社会も清潔にすることと美しくすることが大切である。美の観念を養い、美を楽しむことが生活の意義であるばかりでなく、美の環境によって、社会人心も美しくなるから、犯罪なども減少し、このことだけでも地上天国をつくる一因となるであろう。

 ここに美の社会化ということが必要である。われわれのいう天国は美の世界を意味するからである。人間にあっては心の美(精神美)はもちろん、言葉も行動も美でなければならない。この個人美がひろがつて社会美がうまれる。人と人との交際も美となり、家屋も美しく、街路も交通機関も公園も美しくなる。美を内面から支えるものは真と善である。真でないものは美しくないし、悪の美などはほんとうの美ではない。真善のあらわれは美でなければならない。

 また、美には清潔がともなう。これによって政治も経済も教育も、美しく清浄となり、外交も美しくならなければならない。

 ところが今日の人類社会は実に醜悪である。殊に下層階級には美があまりにもかけている。その原因が経済的に恵まれすぎないからであり、それがまた教育の低下となり、社会施設の貧困ともなり、さらに社会不安もそれにもとずく点も多い。

 殊に、娯楽方面は美を豊富にしなければならない。美意識ほど人間の情操をたかめるものはない。現在の芸能娯楽の卑猥低俗が、いかに人心を頽廃させているかに思いおよぶべきである。

 美の世界をつくるには、何よりも経済力が必要である。国民が貧乏では、とても実現などは思いもよらない。経済力を充実させるには、国民が精一杯はたらき、生産力をたかめる以外にない。それには何といっても国民が健康でなければならない。この健康と健康美こそ根本である。この病なき世界、健康の世界をつくるのが、救世教の主眼である。そして救世教の神霊療法は世界に比類のない療病力を発揮している。この救世教にしてはじめて、美の世界を建設する資格を神からあたえられているというべきである。

 かく美の世界を建設しようとする救世教は芸術を重視する。芸術こそ美のあらわれだからである。しかも芸術の使命は人間の情操をたかめ、生活を豊かにし、人生を楽しく意義あらしめるものである。

 ところが今まで、宗教と芸術とはあまり縁がなさすぎた。古くは聖徳太子のような宗教芸術家もあったが、その後、粗衣粗食、禁欲生活をしながら、教法を弘通した聖者や名僧が多くでたので、宗教と芸術は縁遠いものとなった。これでは真善はあっても、美はないわけである。

 他の宗教に比して救世教ぐらいの芸術を重視する宗教はほかにあるまい。というのは本教の最後の目的である地上天国は、芸術の世界だからである。地上天国は病貧争絶無の世界であり、真善美完き世界であるとしたら、人間は真理に従い、善を好み、悪を嫌い、一切は美化されるのである。そこでどうしても芸術を楽しむようになるどころか、芸術即生活となり、芸術の世界を実現するようになる。この意味で、救世教は美の世界を実現する「美の宗教」といつてもよいであろう。

 そこで今までの宗教は地獄的宗教であるに反し、救世教は天国的宗教といってもよい。なんとなれば今までの宗教で迫害や圧迫や受難の茨の道をたどらなかったものはほとんどないからである。また、一方には戒律主義や禁欲主義で難行苦行の修業三昧をもって、宗教の本質と考え、心魂を磨く手段とするようなものは地獄的宗教である。

 このような地獄的信仰の世界に、忽然とあらわれたのが救世教である。救世教は地獄的苦行を最も排斥し、天国的生活をもって真の信仰であるとするのである。救世教には宗教も哲学も科学も芸術も包含されている。特に人類の救いの根本である健康の解決、農業の革命など、すべて地獄を天国化するものである。難行苦行は邪道であり、歓喜あふれる天国的生活こそ、真の救いの道である。

 今までの宗教は、天国出現の基礎的工作の役目であり、救世教はその上に天国を建設する役目を担うて出現したのである。今までの宗教は夜の世界の宗教であり、救世教は昼の世界の宗教であるからである。すでに霊界においては夜昼転換した。

 明主いう。「ここにわれらは、時期いよいよ至れるを知り、天国は今や呱々の声を上げんとする直前であることを、あまねく全人類に告げたいのである。」