古往今来、いかなる人間でも幸福をこいねがわぬ者はあるまい。幸福こそ実に人間最初にして最後の目標であるからである。幸福をえんがための学問であり、修養であり、努力であるにかかわらず、満足につかみうる者ははたして幾人あるであろうか。大部分は幸福を獲得せんと思い続けつつ、かえって不幸の境遇にあり、決の喜びを遂げられることなくして、不帰の客となるのが一般の現実である。然らば幸福をうることは、そんなにむずかしいものであろうか。私は否といいたいのである。
そもそも幸福とは、病気、貧乏、闘争、この三間題の解決が基本であるが、いうはやすく実現はかたく、たいていはあきらめるの余儀なきにいたるのである。一切は原因があって結果がある。もちろん幸福とて同様であるとすれば、その原因を知ることである。
然らば、その原因とは何か、昔からいうところの善因善果、悪因悪果とは、実に千古を貫く真理である。この理を知って、他人を幸福にするために、努力することこそ、自分自身を幸福にする絶対的条件であらねばならない。
ところが世の中には、他人の不幸をかえりみず、自分だけが幸福になろうとする人間が、あまりにも多いことである。一方に不幸の種を播きつつ、幸福の実をえようとするのであるから、全く愚かな話である。
宗教が人間にとって、いかに必要であるかはこの点にある。すなわちキリスト教の愛といい、仏教の慈悲というのも、他人を幸福にする利他的観念をうえつけるのが本義である。幸福をうるには善の種を播けばいいのである。その反対の悪の種とは人を苦しめ、損害をあたえ、自分さえよければ、人はどうでもいいというような利己的観念で、善の種とは他人をよろこばせ、他人に利益をあたえる利他的観念である。としたら、甚だ簡単なようだが、それがなかなかむずかしいのであるから、人生は厄介なものである。ではどうすればいいかというと、右の道理を信じ、守りえられる心をつくることで、そうなれば嫌でも実行するからである。それにはもちろん信仰よりほかにないが、わが救世教こそ、その条件に最も合致している信仰であるから、不幸に苦しんでいる人は、一日も早く入信することをおすすめする次第である。
信仰の妙諦は、「神様から愛されること」である。「神様のお気に入られること」である。では神様にお気に入られるということは、一体どうすればよいか、ということである。そのためには、神様のお嫌いなことはやらないことで、その反対に神様のお気に入ることを一生懸命にやるようにすることである。
これは誰でも常識で考えてもわかるように、神様のお嫌いなことといえば道に外れることで、即ち嘘をつくこと、他人を苦しめること、社会に迷惑をかけることなどである。ところが今日の人は、他人はどうなっても自分さえよければよいと思い、それを行動にあらわすのがあまりにも多いことである。これが一番いけない。これでは神様のお気に入るはずがない。これについて、自分は今、神様のお気に入られているか、あるいは嫌われているかということを知らなければならない。それならどうして判断するかということであるが、これを知る方法は実に簡単である。
自分はどうも思うようにゆかない。物質に困る。仕事が発展しない。人の信用がうすい。人があまり寄って来ない。健康も面白くない。これほど一生懸命にやっているのに、どういうわけだかわからないという人がよくあるが、これこそ神様のお気に入らないからである。神様のお気にさえ入れば、仕事は面白いように運び、うるさいほど人が寄って来る。物資は使い切れないほど入って来る、というわけで、世の中がとても面白くなるというわけである。
これでほぼわかったと思うが、こういうような幸福者となることこそ、はじめて信仰というものの価値があるのである。故に折角、信仰をしながら、幸福がもしつかめないとしたら、必ず自分の心に原因がひそんでいることをさとるべきである。
幸福の秘訣などというと、何か特別の魔法でもつかうように思うかも知れないが決してそうでない。至極あたりまえの話である。今、社会を見渡した時、真の幸福者はいったい幾人あるであろうか、恐らく一人もないといってよかろう。そんなに苦の世界である。どんな人も失敗、失業、病苦、貧困、不和、懐疑、悲観など、実に首枷<くびかせ>、足枷をはめられ、牢獄に呻吟しているというのが、ありのままの姿であろう。
まず誰しも、こういう疑問が起るであろう。全体、造物主である神様は、人間を造っておきながら、これほど苦しませるということはどういうわけであろうか。なぜもっと不幸よりも幸福の多い世界にしてくれないのであろうかと思わないわけにはゆくまい。と考えると、何かそこに割切れないものがあるにちがいない。 人間の発生した原始時代から、今日まで厳然として存在をつづけているものとしては、まず善と悪であろう。そうしてこの善悪という相反する性質のものは、常に摩擦し争闘しつつ、今もって勝負がつかないでいる。ところがよく考えてみると、この善悪の摩擦によって、今日のような文化の発展をみたのである。
とすれば、われわれとしては現実を主とし、生ある間、幸福者たりうれば、それでいいのである。ではその方法はといえば、他人を幸福にすることで、ただこの一事だけである。そしてそれには最もいい方法がある。それはできるだけ善事を行うのである。始終、何か善いことをしようと心がけるのである。
たとえば人を喜ばせよう。相手に希望をもたせるようにし、愛と親切とを旨とし、できるかぎり誠をつくすのである。こうして善事を多くした人ほど、幸福者になることはうけあいである。
このように、みんなが気をそろえて善事を行ったとしたら、国家も社会もどうなるであろうかと想像してみるがよい。まず世界一の理想国家となり、世界中から尊敬をうけるのはもちろんである。その結果、あらゆる忌まわしい問題は解消し、われが唱える病貧争絶無の地上天国は出現し、人民の幸福は計り知れないものがあろう。
宿命とは生まれながらにきまったものであるが、運命の方は人間次第でどうにでもなるものである。
それについて霊の方面から説明すれば、一切の悩み苦しみは霊の浄化作用である。このように、霊の浄化作用は苦しみで霊の曇りをとる方法であるが、曇りを減らすのが、開運の絶対的条件である。つまりある程度、魂が浄まれは浄化の必要がないから、不幸が幸福に変ることになる。運は寝て待てではなく、運は浄めて待てである。
ところが苦しまないで魂が浄まる方法が信仰であるから、無信仰者に幸福は絶対にないわけである。しかし信仰にもいろいろあるから、立派な力ある信仰でなくては真の幸福はえられない。
救世教の浄霊とは幸福を生む方法である。病気を治すのも浄化であり、その因は霊の曇りの解消作用であるばかりでなく、人間一切の苦悩のなくなる作用である。
したがって貧乏も争いも浄化のあらわれで、病貧争ことごとくがそれである。ところが一切の浄化作用の中で最も重要なのが病気であって、これは生命に関するものであるからである。そして病気さえ解決できれば、貧も争いも自然に解決されるので、そうなることが幸福の根本であるから、不幸の原因は全く霊の曇りにある。それで霊の曇りの解消法としての浄霊は、病気を治すだけではなく、幸福をもたらす根本の方法である。