救世教は病貧争のない世界をつくろうというのが目標であるといった。それはいいかえれば人類救済ということであり、人類社会から一切の恐怖や不安や苦悩をのぞくということである。その最大の恐怖や不安や苦悩は、病気と貧困と闘争である。
この三大恐怖のうち、一番、恐ろしいのは病気の恐怖である。これほど人間の生命や生活をおびやかすものはない。だれでも一生を通じて、この不安から全くまぬかれるものはない。この病気の恐怖こそは、どんなに文化が進歩しても、減らないところか、むしろふえつつあるとさえ見られる。
つぎに貧困の恐怖であるが、この原因の最大なものは病気であろう。病気をすれば治療費がかさむ。職業についていられないから借金をする。病気が主人であると、かせげないから家族は生活難におちいる。食えなくなると犯罪がふえるというわけだ。
つぎに戦争の恐怖だ。この悩みはいま現に世界の人類がなめつつあることだ。原子爆弾などという人類を滅亡させ、地球を破壊するような恐ろしい兵器があらわれたのだから、たまったものではない。今日、人類にとって、こんな大きな恐怖はあるまい。
この三大恐怖の解決こそ、人類にあたえられた一大課題である。これまでの人類はあまりにも苦悩のたえまのない世界であった。この世にほんとうに神があるとしたら、神の大変はこのような世界を、いつまでも放っておくはずはない。必ずこのような苦悩の時代はいいかげんに打切りにして、恐怖のない世界がうまれなければならない。そこでこの三大恐怖の解決こそ、宗教の真の使命でなければならない。救世教はこの解決を使命として邁進しつつあるのである。
神に救われるということは、霊肉ともに救われるのでなければ意味がない。真の救いというものは、霊的にも肉体的にも、また精神的にも物質的にも救われるのでなければならない。
ところが信心家で、長年、病床に坤吟していながら、御当人は神に救われたといって、満足している人をよく見うける。しかしこれは生死は運命と思ってあきらめ、無理に苦しさをおさえつけ、強いて満足しているとしか考えられない。ちょっと常識では考えられないこの気持を、信仰のお蔭と心得ているのだから可哀想でもあり、滑稽でもある。
こんな話がある。沢庵禅師が死にのぞんだ時のことだ。周囲の者が、「なにか辞世を書いていただきたい」と紙と筆をささげた。すると禅師は筆をとって、「俺は死にたくない」と書いた。人々は「禅師ほどの名僧がこのようなことをお書きになるはずがない。なにかのまちがいであろう」と、また紙と筆をささげた。すると今度は「俺はどうしても死にたくない」と書かれたということである。
普通の僧侶なら、たいてい「死生一如」などと気どって書くであろうが、禅師がなんのてらうことなく、その心境を率直にあらわした態度は実にえらいと思う。
それもそのはずだ。だれだって死ぬことをよろこぶ奴はない。だれでも長生きするにかぎるよ。病苦を訴えるものに対して、「人間はよろしく死生を超越せざるべからず」なんていうが、こいつは無理というもんだ。どんな人間でも死生を超越するなんてことは、できるもんじゃない。
ところが今までの信仰は、精神を救う力はあるが、肉体まで救う力はなかったので、信仰とは精神のみ救わるべきもの、安心立命だけをもとむべきものとされてきたのであろう。そこで病苦に呻吟し、貧困にあえぎながら、悟ったような顔をしているのは、むしろ哀れであり、悲惨でもある。
それは無信心の者よりは、精神的には救われているかも知れないが、肉体的には救われていないのである。
つまり半分だけ救われてあとの半分は救われていないのだ。これでは人間を生殺しにしているようなもので、神や仏も片手落ちで殺生というもんだ。
真に救われるということは、霊肉ともに救われなくてはならない。心身ともに救われるというのでなければうそだ。ところが、今まで、片方しか救われなかったのは、宗教に治病の力がなかったからだ。精神を救うのは宗教家、病気を治すのは医者と、医者と坊主が半分ずつ分業でうけっていたからだ。いってみれば医薬分業みたいなものだ。
ところが救世教は病気をわけなく治してしまう。それはどんな人でも、数日間、浄霊法という神霊療法の教修をうければ、驚くべき治病能力を発揮できるのである。医者から見放された病人でも治せるし、自分で自分の病気を治せるので、ほとんど信じられないくらいである。かく病患を見えない神霊の力の発現によって治すものである。そんなわけで救世教に入信するや、月日がたつにつれて、自分も家庭も日を追うて健康になり、遂には霊肉ともに病なき家庭となるから、一家は明るく、すべてが順調に運び、真に簗しい生活となる。そこで病気は縁切りとなるから、健康上からも経済上からも精神上からも、その利益の莫大なことは想像もできないくらいだ。これこそはほんとうの天国の救いである。この神霊療法による病気治しが特に救世教の特色である。これこそ生命ある宗教といわずして、なんぞやである。それ故、また「力の宗教」ともいうのである。
かく病貧争絶無の世界を目標とすることは、病苦からの解放であり、貧困からの解放であり、闘争からの解放である。この三つの解放を目ざしているが、その第一手段として、病苦から解放し、身心健全者となれば、おのずから貧乏も闘争もなくなるのである。この基礎の上に地上天国を樹立するのである。
つぎに地上天国というのは美の世界である。美の世界、芸術の世界を実現しようとするのであるから、美の宗教とも、芸術の宗教ともいえるであろう。
救世教の唱える神霊療法による病気治しにしても、立派な生命の芸術である。すでに述べたが、芸術なるものは、真・善・美の条件にかなわなければならない。まず病人には真がない。人は健康であるのが真で、健康をそこねるということは、本来の人間のありかたではない、偽である。その偽なる状態を治して真にするのだから、生命の芸術である。
天国は芸術の世界なりというが、それは真善美の全くそなわつた世界をいうのである。神の理想は地上天国を造るにある。天国とは、戦争のない恒久平和の真善美が完全にそなわる世界であるとすれば、最も発達するのは芸術である。
それで救世教では芸術を大いに奨励している。芸術は美を表現するものであるが、人間が美からうける感化は軽視できないものがある。美によって楽しませるとともに、知らず識らずのうちに、品性を向上させ、平和愛好の思想がつくられるのである。山水、花鳥、星辰の自然美から人体美、また芸術美にいたるまで、この世界には自然と人間の美がみちあふれている。
明主はそこで地上天国の模型を造ったが、この構想はあらゆる自然美と人工美を総合調和させて、今日まで何人も試みなかった劃期的な新芸術品である。これによつて人々が神意をさとり、人生のよろこびを深からしめ、心性の向上に大いに役立たせようとするのだから、救世教こそ天国的宗教ということができよう。
このように救世教は、苦悩にみちた現実の世界を天国化するのが目的であり天国的生活をもって真の信仰であるとするのである。しかもこれこそ神の愛であり、仏の慈悲でなくてなんであろう。まことに光明に歓喜あふれる天国的生活こそ、真に救われたというべき境地である。これを家庭から社会へ、さらに世界全体におしひろげるとしたら、ここに地上天国は如実に実現するのである。したがって救世教は現在救世の宗教である。