二 宗教物語

明主はいう。救世教は宗教ではなく、宗教は救世教の一部である。なんとなれば救世教は新しい世界を建設することを事業としているからである。そこで「新世界建設事業」という名が一番ピッタリするが、これではなんだか土建屋の看板みたいだから、今のところ「世界救世教」とよぶよりほかにしかたがあるまい。

 近代になって唯物的な科学文化が非常な速度で走りつづけているに対し、唯心的な宗教の方は、数千年前の文化がまだ幼稚な時代にうまれたままで、ほとんど進歩がなかったから、二つの走りっこはまるで兎と亀で、とうとう千里の差を生じてしまったのである。

 その結果、科学だけがクローズアップされ、霊の方は眼に入らないまでに遠くなってしまった。それで霊を無視し、科学だけを文化と思い込んで、科学の奴隷になってしまったのが、現在の世界の姿である。

 そしてなによりも大切な人間の生命まで、安心して科学の王様におまかせしているではないか。ところが、科学では生命の安全は保障できないのに、ちっともそれに気づかず、相変らず盲信しているのが、今の人の考えである。ここに現代人の科学迷信がある。

 生命は物質には属していないのである。生命のはたらきは眼には見えないが、厳然たる存在である。生命は神の支配にあるもので、科学の支配のもとにはないのだ。したがって病気を治すには、生命のはたらきを活発にすることが必要だが、生命を支配しているものは神様だから、神様の霊力におすがりするのが当然である。それを科学の王様におねがいするのだから、お門ちがいというわけだ。その証拠には、科学の方ではもう命はだめと断定されたものが、こちらの神力でドシドシ治っているという事実である。

 人々は科学の発達をもって、ずいぶん文化の進歩した文明世界と思い込んでいるが、はたしてそんなものであろうか。いったい文明世界とはどのような世界をいうのであろう。思うに人間の生命が安全に確保されることが第一であろう。生命の安全がないかぎり、文明とはいえないであろう。戦争や貧乏や病気のない世界、これが本当の文明世界であると思う。なぜなら、この三つのわざわいが、たえず人間の生命をおびやかしているからである。

 というと、なるほどそういう結構な世界ができれば、それにこしたことはない。だがまてよ、そんな夢みたいな話は、ばかばかしくて信ぜられないというだろう。ところが、こちらはできるというのである。すると、そりゃ何千年か何万年の先ならできるかも知れないが、われわれの時代にできるなんていう奴は、まあ頭でもどうかしているにちがいない、というだろう。

 というのも全く無理のない話だ。なにしろ歴史はじまって以来、何千年ものあいだ、人類は苦しみ通しできたんだから、これが人間社会の常態なんだ、と思い込んでしまつているからだ。ところがそれどころではない。現実は苦しみの方がずっと多いんだからやりきれない。

 お釈迦さんでさえ「この娑婆は、生老病死の四苦はまぬかれない」とおっしゃる。四苦どころじやない、その倍にもなるんだから、四苦八苦というのである。

 ではこの苦しみの原因はどこにあるかということだ。その原因は野蛮にある。文明にならないといい世の中はこない。文明になった、文明になったと世間ではおっしゃるが、その文明が真の文明か、上っ面の文明か、そこまでは気がつかなかつた。それは科学文化という、文明の上面ばかりをみて、ありがたがっていたのである。いわば立派な服装<みなり>だけに感心していて、それにつつまれている垢だらけの身体に気がつかなかったようなものだ。

 全く外見にごまかされていたのが「文明の迷信」である。文明の迷信には科学迷信、医学迷信、肥料迷信、無神迷信がある。この迷信は盲信の甚だしいものである。またいつまでもつきない世俗迷信があるが、これは文明の発達とともに少くなる。この文明の迷信家が、こつちの方を迷信よばわりするのだから始末がわるい。まるで狂人が常人を狂人よばわりするようなものだ。どつちが迷信か、一つ迷信くらべでもしたら面白かろう。

 ところで、たとえ外形文化でも、その恵みに浴することができたら、幸福にちがいないが、その恩恵にあずかるものは実にすくない。どこの国でもほんのわずかな金持だけが恩恵に浴するのであつて、貧乏な大衆は相も変らず不安におぴえ、苦悩のどん底にあえいでいるのだ。

 この現実をみると、文明の目的である幸福なんて、全くの行方不明で、どこにも見つからないのである。はじめ物質文明さえ進歩させれば、幸福な世界が実現すると思い込んでいたのに、期待は物の美事に裏切られたのである。なるほど物質文明の進歩は、昔の人が見たらぴっくり仰天するだろう。だがそれにただ感心しているだけではなんにもならないのだ。大衆がその恩恵に浴してこそ価値がある。

 ところが大衆は旧態依然として、戦争の恐怖、貧乏の自由、病気の氾濫という人類の三大苦に苦しみ通しである。これじゃ、最大多数の最大幸福なんて民主主義のお念仏をよそに、現実は実に最大多数の最大不幸というべきであろう。

 まず手近なところで、日本の現状はどうであろう。ヤレ結核、ヤレ伝染病、心中、自殺、人殺し、兇器犯罪に青少年犯罪、強盗、窃盗、汚職、疑獄と、とても一口にはいえないほど忌まわしいことばかりである。これでは全く地獄の世界ではないか。

 この原因は文明は科学文化という上面ばかりで、内面の方は一向に野蛮から脱していないからだ。文明は人類を幸福にすると思って歩んできた道が、いずくんぞ知らん、地獄の道であったとは。

 はてそんなはずはない、というだろう。ところがちゃんと、そんなはずがある。今までの文明はほんとうの文明ではない。かたわの文明だから、どんなに進歩したって、幸福にはなれっこないのだ。

 そこで現在まで進歩してきた物質文明に魂を入れかえて、新しい文明を創造しなくてはならない。つまり「悪の文明」を「善の文明」におきかえるのだ。それが地上天国の建設ということだ。 そこで一言いいたいことは、キリストは「天国は近づけり」といい、釈迦は「ミロクの世がくる」と予言したが、御自身で天国を造るとはおゃしゃらなかった。ところがこちらでは、天国を造ると宣言するのである。主神の天国建設の大経綸を今や実現すべき天の時が到来したと申しそえておこう。

こんなわけで、救世教はいわゆる宗教ではない。宗教以上のものであり、超宗教である。宗教よりもずっと大きな救いの業である。全人類を苦悩から脱却させ、歓喜の生活にみちびくものである。真の文明とはどういうものであるかを教えるとともに、病貧争絶無の地上天国を建設する指針をあたえるものである。

 こうして本教は病貧争絶無の世界地上天国建設ということを目標としているが、たいていの人は痴人夢を説くとしかうけとれないだろう。しかし物質文明だけはずいぶん発達したが、世の中には依然と不幸と苦悩が充満している。原子爆弾の発見で、科学の発達はその極に達し、おつぎは人類の滅亡ではとんでもないことだ。片方の文明だけが発達したから、こんなことにあいなったのである。

 もし世界各国に、かりに宗教というものがうまれなかったとしたら、世界は悪魔の横行で、もうとっくの昔に破滅していたかも知れない。今までの宗教の力が、世界の滅亡を食いとめてきたことを思えば、今日までの宗教家の功績はどんなに高く評価しても、しすぎるということはないであろう。

 しかし現在の世界人類は、地獄の苦悩にあえいでいる。今日、人類の悩みはあまりに融和の精神に乏しく、闘争の犠牲になりすぎている。どうしてもこの無明世界を解消して光明世界を実現するために、一大光明があらわれなければならない時期に到達している。それには超宗教的な救いの力がなくてはかなわぬことだ。