二 信用について

 宗教とはなんぞやといえば、正しい人間をつくることである。正義を貫く信者をつくることである。そのためには、悪にうち勝つ力ある宗教があらわれなくてはならない。それによってのみ、より善い社会も、幸福な平和な世界もうまれるのである。信仰即正義とはこのことである。

 真の信仰者とはいかなるものであろうか。どんなに立派な信仰者のつもりでいても、自分の主観だけでは意味がない。客観的にみて真の信仰者でなければ本物でない。そのような信仰者たるにはどうすればよいか。それは人から信用されることである。たとえば、あの人のいうことなら間違いない、あの人と交際していれば決して悪いことはない、あの人は立派な人である、というように信用されることである。

 ではそのような信用をうけるにはどうすればいいか。何よりも嘘をいわないことと、自分の利益を後にして人の利益を先にすることである。いわばあの人のお蔭で助かった、あの人につきあっていれば損はない、実に親切な人だ、あの人とあうといつも気持がよい。というようであれば、誰もが愛好し尊敬することはうけあいである。いま一つ、どんなによくしても一時的ではいけない。丁度、米の飯と同じように、ながくかみしめると味がでてくるような、米の飯入間にならなければいけない。

 ところが、それとは反対な人があまりに多い。わざわざ信用を落すようなことを平気でする。じきに尻からばれるような嘘をつく。一度、嘘をついたら最後、ほかのことはどんなによくても、いっぺんに信用ははげてしまう。全く愚の骨頂である。一生懸命にはたらき、どんなに苦心努力をしても、一向に運がよくならない人があるが、その原因をさぐれば、必ず嘘をついて信用をなくすためで、これには例外がない。全く信用は財産である。信用さえあれば金銭の不自由などは絶対にない。誰でも快く貸してくれるからである。

 右は人間に対しての話であるが、今一歩すすんで、神様に信用されるということ、これが最も尊いのである。神様から信用されれば何事もうまくゆき、歓喜にひたる生活となりうるからである。