(二) 意義について  

 善言讃詞の意義については、前章を読まれた方々はある程度理解されたものと思うが、これについて、明主様のお残しになられたお言葉がいくつかあるので、それによ
って拝察、また勉強させていただくことにする。

   言霊の偉力と浄化

 『霊界においては大言霊界──すなわち七十五声の言霊が鳴り響いている。これは霊界に充実している無声の声であって、人間の耳には感じないのである。しかし、この大言霊に対して、人間が発する言霊は大いに影響する。もちろん、正なる言霊は霊界の汚濁を軽減させるが、これと反対に、悪の言霊は汚濁を増すのである。これはなぜかといえば、七十五声の言霊の配列の順序によるので、その基礎は善悪いかんである。すなわち、善の言霊とは美辞麗句であって、美辞麗句とはひとつひとつの単語の綴り方が真善美に適っているからである。これは何よりも人間の耳へも快く響くもので、なぜ快く響くかというと、人間良心の本源である魂にまで透徹するからである。しかるに、悪の言霊は魂には透徹しないので、それを包んでいる心の範囲にまでしか達しないのである。

 ここでいま一層徹底しなければならない。ということは、私がつねにいうところの副守護神、すなわち動物霊は、心の範囲内に限定して憑依している以上、心の曇りが濃度であるほど副守護神の能力は強化される。これがくせもので、つねに良心たる魂の光を遮蔽しているから悪を好む人間となるのである。ところが悪の言霊は副守護神には快く響くので、これは事実がよく証明している。

 良い話を好むのは前述のごとく魂に快く響くからであり、悪い言霊を好むのは副守護神がよろこんで快く響くのである。たとえば、悪人どもが悪事を語り合っているのを、仮にわれわれが聞くとすれば、堪えられないほどの不快であるにかかわらず、悪人は快感をもよおすのである。

 以上の理によって、善い言霊は魂に響くから魂の光が増し、それによって心の曇りが減り、副守護神は畏縮する。畏縮するから悪を好まなくなる。というわけで、人間
を苦しめていた副守護神は善言讃詞によって畏縮または離脱することになり、心の曇りも減少するから苦悩から解放されるのである。 右によってみても、善言讃詞の言霊は、いかに善美きわまるものであるかが判るとともに、善言讃詞を奏上するや、その周囲の霊界は大いに浄まるのである。

 『とくにいまひとつの重要事がある。それは、言霊を発する人間の霊の清濁が大いに関係がある。すなわち魂の清い者ほど言霊の威力は発揮されるのである。それは霊的階級が上位であるからである。……(中略)
 したがって信者はつねに魂を磨き、言霊を練り、上魂の人間たることを心がけねばならぬ』

 長文の御教えではあるが、この中には、古来よりわが日本人が言霊というものを大切にして、言葉を慎み、また、美しくあらしめた理由について、またさらに、心と魂の関係や、人間の悪の心、言、行の中心である副守護神の働きなどをおとりあげにな
っており、本教教義の面からも重要な点を含んでおるものと考えられたのであえて引用させていただいたのである。

 これから考えると、言葉というものは単なる意志の伝達をするばかりでなく、そこにはふしぎな霊的な力が働くものであるということ、さらに、浄まった曇りのない魂からほとばしり出る言葉でなければ、霊的な力は発揮<はつき>できないということ、そして、そこに人びとの信仰的向上が要求されるものであって、明主様がつねにいわれた、『言霊は神なり』という意義があるのである。

 その意味からして、御教えに、
『たとえば、キリスト教においての讃美歌の合唱も、仏教における読経も、神道の祝詞もいずれも善言讃詞であるから、霊界清掃に役立つのである』とあるのも、よく理解させていただけるのである。ただ、このお言葉の中の善言讃詞は、賛美歌、経文、祝詞を指す広い意味の一般的な名詞であり、本書にいう善言讃詞は、この祝詞を指す固有名詞であり、明主様がお作りになられたこの祝詞こそは、他の讃美歌、経文、祝詞にも増して、より言霊の働きを強めたいというお気持からお作りになられたものと拝察されるのである。

 それだけに、和歌のように作ったと仰せられたとおりに、韻を踏んで、奉唱するだに心の楽しくなるようなお言葉を選ばれ、また神力顕現に応じて、今日までご改訂になられた深い意味のあるものだけに、つねに慎重に一字のまちがいもなく奉唱するよう心がけたいものである。