一 竹の庭

 白亜の美の殿堂、箱根美術館は神仙郷の上段に聳え、緑の風がわたる。楓の根もとの岩苔をぬらして、谷川の音。「この岩の配置には手が入っていますね。石組の法によって自然に人工を加えてありますね。」はじめて訪れて、その手際の凡ならざるを見ていう。
 「そうです、明主様の御指図によるものです」と、ここはすでに神仙郷の庭の一角である。「楓の溪<たに>」の水は流れくだって、神仙郷の朱塗の欄干の影を映している。橋をわたって「苔の庭」の木洩れ日は美しい。苔庭の美しさは樹影そのものよりも、それがうきたたせる木洩れ日にある。その光の流れにくつきりうきあがつた苔の色にある。

 「萩の舎<や>」の前の「萩の径<みち>」には細い風、萩のさゆれにふと足をとめる。疎竹の影が足もとにある。鳥の影かすめるとみて、梢をわたる鶯の声。苔岩としきつめた小石と疎竹に思わず眼をひきつけられる。
 「清楚な庭です。しかもこれは一幅の絵画ですね」絵を庭に描いたものだ。自然の美を焦点化して絵の構図ができる。ところがこれは絵の構図を庭にうつしたものだ。絵画をうつした造庭の手法の妙をみる。「竹の庭」も明主の絵の構図である。ここだけではない。神仙郷そのものが雄大な絵画で、庭で絵を描いてみせたようなものである。そのポイントになる局部の絵をあげると、「竹の庭」と「苔の庭」と「岩の庭」などである。

 去年の今頃(昭和二十九年六月二十四日)現代竹芸の名匠、飯塚琅紆斎(名は弥之助、明治二十三年、栃木市に生る)がここを訪れた由をきき、竹の庭から琅紆斎の竹林の別荘を連想して、ふとなつかしく思う。一面識の人であるが、その生涯を竹に精魂をうちこんできたような人が、まったく思いもおよばなかったところを、一年のへだたりがあるとはいえ、しかもおなじ緑の頃に、訪れたということにあるなつかしみをおぼえるのである。この人からうけた強い印象が今でも残っているからだ。

 栃木市に琅紆斎の作品をとりあつかっている人がいる。そこで琅紆斎の大きな花籠を見せてもらった。「実に丹精をこめて編みあげてある。優麗の逸品だ。だが実に個性が強い。人により見方によっては野心の強い一抹の俗気とも見られることがあるかも知れない。制作者は孤独癖のつよいむずかしやで、孤高の精神に生きてきた人のようにみえる。内に豪毅で激しい気性をもつている人とみえる」と側の人にささやいた。茨城の古河市の古い代議士である。みつめていると、これほどの逸品にしてなお一抹の俗気を脳裏わらうち消すことができない。その一点が気品をくずし、絶品とか神品としての品位を認めがたいという気持は、どうしようもなかつた。

 それから三人でつれだつて、栃木市の郊外、渦<うず>巴川をわたり、大平山の中腹、眺望ひらけたところに、琅紆斎の竹林の別荘を訪れた。かけ樋<ひ>の山水で汗をながしたのをおぼえているから多分、七八月の候であろう。同行の代議士が追放中であったから、終戦後間もない昭和二十三年ごろであつたかと思う。通された客間の床の間をみて「ここに琅紆斎がいる!」と独語した。竹筒の花生に、野の花が無雑作に生けてあるのをみつめているのだ。美事な生け方だが、しかし強い。個性の美を創造しながら、それを内面からうち砕きかねない、はげしい匠気というか、衒気ともいうべきものかも知れない。それは気品をくずし、美をかなしませるものであり、やりきれない気特にさせるものだ。この印象が先前から焼きつくように脳裏に残っているが、それをまた眼前の生花に見せつけられているのだ。こうして琅紆斎と対座しているというより、対決しているといつた方がよい。─すると、すうつと当の琅紆斎が入つてきて坐った。「このおやじだ!」まず見すえる。主客ともに挨拶もしない。頑丈に締つた魁偉な坊主頭の面つきだ。「やっぱり、これが琅紆斎だ!」とつぶやく。

 琅紆斎は富岡鉄斎手づくりの茶碗を手にとって見せてくれる。若い頃の作であるという。鉄斎のユニークな作品から感ずるある種の覇気にも共通したものがある。
 「私は一介の竹工にすぎない。竹によって生涯の生計をたてている。庭には筍がたくさんでるが、竹の恩を思うで決して食わないことにしている」といった言葉をおぼえている。また「仕事場は誰にも見せない」ともいった。美の職人といったふうな気さくで好感のもてる人であった。栃木市の人が持参した酒とすき焼で、美術談に半日の閑を楽しみ、日の傾く頃辞去した。それから琅紆斎とはあわないのである。

 琅紆斎が美術館を訪れたのは、ここに彼の「萬歳」という銘の花籠を蔵していること、明主から南宋の郊壇窯<こうだんよう>の壷を模して籠を作るようにという注文をはたしたからである。彼は古い竹工の芸を芸術にまでたかめ、竹芸においては当代随一の名匠で芸術院会員である。明主が琅紆斎の竹芸を高く評価したのはさすがである。琅紆斎はこの訪問の際、注文の籠についての苦心談をしている。

 「根のいる仕事ですから、一日中つづけて作るのではありません。毎日すこしずつ作ってゆくのです。いつも籠を作る時は二つ作ります。一つは本物として作るのですが、一つは仮のもので、その仮の方を作ってみて加減をみては本物を作り、仮の方で調子をみては本物を作るというように、二つを少しずつ編みあげ、できあがった時はおなじ物が二つできますが、仮の方はすぐこわしてしまいます。編むとき爪をつかうので、この籠ができあがつた時は爪がなくなりました。この籠は今まで作った籠の中で、一番菅労をしました。」籠つくりでも、仮の物で調子をみては、本物を編み上げてゆく。決して、いい加減につくるものではないという。
 
「仮の物」は「本物」をつくるためのもので、本物ができれば、もう用ほない。仮の物は本物をつくるための手段である。籠作りでもこの用意がある。いわんや大きなものをつくるときには模型をつくる。模型ほ構想の縮図としての具体化である。

 造物主としての神は偉大な芸術家であるが、造化の妙を発揮して自然と人間を創造した。そして神の理想は永遠の平和と幸福の地上天国をつくるにある。それは真善美まったき理想世界である。それが神の経綸である。しかし今までは病苦、貧困、争闘の暗黒の夜の世界であった。ところが今や光明の昼の世界に転換したのである。したがって、いよいよ神の経綸を実現する時期に到達し、神の理想にして、人類究極の理想たる地上天国を建設すべき天の時が到ったのである。神はその経綸を実現するために、明主を機関として自由につかわれる。神は機関をとうして実現させるにあたって、最も適当なところに、まずその模型をつくらせるのであるが、それが明主の地上天国の模型であるという。

 神の経綸は最初は極く小さく造り、漸次、拡がって遂には世界大となるという神秘なものである。それはあたかも人間が大きな物を造る場合、まず模型を造つてからはじめるようなものである。故に箱根、熱海の地上天国も将来における世界的な地上天国を暗示しているのである。

 神の構想は常に世界の上にある。その霊界における構想の原型を、現界に移写して模型になる。その模型を家庭に縮写し、社会や世界に拡大実現するのである。かく模型はやがて世界の上に、理想的な典型として実現されなければならない。

 模型は本来、それだけでは意味がないものである。仮の物である模型をうつして、より以上の本物たる現実の典型を家庭に社会に世界に建設するところに意味がある。されば世界の上に地上天国が実現されたとき、模型はもう用がないから、木つ端微塵にうちこわされてもいいものなのである。籠作りが本物ができたとき、仮のものは惜し気もなくこわしてしまうように、神もまたその本物ができたときには、仮のものはこわしてしまうであろう。しかしその模型がそれ自体、理想的な典型の縮図でありえたとき、神はながく保存するであろう。

 霊界における神の構想の原型を視界に模写したものが神意の模型であるが、これを世界に拡大して理想的な典型を実現するのが、救世教の究極の目標である。

 模型は原型の構造を模した型でなければならない。その構造の条件は三つの要素の統一にある。すなわち病貧争絶無の世界であり、そこに実現される宗教・道徳・芸術の融合した社会であり、その理想たる真善美の理念が渾然一体となつた芸術的世界である。その意味の美の天国である。神は自然と人間を創造したが、その自然美と人工美を調和した渾然たる芸術境が地上天国である。