一 誠と智慧

 信仰の妙諦は道理に従うことである。道理に従うことは神に従うことである。故に人たるものはどんなことかあっても、道理を重んじ、道理に従い、道理にはずれてはならないのである。

 世界も国家も個人もあらゆる問題を解決する鍵は「誠」である。政治の貧困は誠が貧困だからである。道義の頽廃は誠のないためである。あらゆる忌わしい問題は誠の不足が原因である。宗教も学問も芸術も、誠がなければ形骸にすぎない。

 誠のある人は何よりも約束を重んじ、よく守ることである。約束を守らないということは、人をいつわることになるから、罪悪を犯したことになる。時間の約束をしておきながら、守らないことは、待つ人の心を察しないもので、その心がわからないのは誠がないからである。したがつて神の信者は約束の厳守、時間の励行をおろそかにしてはならない。もしその実行ができなければ、まず信者の落第生である。

 世の中で一口に智慧というが、智慧にも種々あり、浅い深いもある。智慧のなかでも神智・善智・叡智は最上のもので、これらの智慧を磨くべく、大いに信仰をはげむべきである。なんとなれば、このような智慧は神を認め、正しい誠の心からでなくては湧き起らないからである。故に善智をもつて行動の規範として努力すれば、決して失敗はなく、真の幸福を獲得することができるからである。

 悪から発生する智慧は奸智・才智・邪智で、あらゆる犯罪者はこれらの智慧の持ち主である。

 善智は深く、悪智は浅い。永遠の栄を望むものは、深い智慧によらなければならない。深い智慧は強い誠から湧くのであるから、どうしても正しい信仰人でなくてはならない。善智を養わなければ、何事もうまくゆくはずがない。それには信仰によって、誠の心をつちかわなければならない。

 智慧といっても種々ある。最高は神智、つぎが妙智・叡智・才智・奸智の順で、五段階になる。名づけて五智という。

 神智とは、最高の智慧で、これは普通人にはえられない。特別の人間が神から授けられる智慧で、それはその人が重大使命を神から委任されたからである。昔から「学んで知るを人智といい、学ばずして知るを神智という。」と。

 妙智とは、観音妙智力といい、神智に対して、仏智ともいう。神智は男性的とすれば、妙智は女性的ともいえる。

 叡智とは、賢明な人間があらわす智慧である。しかし今の世の中は、この叡智さえはたらかない人が多い。邪念のために心が曇り、物の正しい判断がつきがたいからである。叡智が足りないのは頭脳が曇つているからで、頭脳が曇つているのは邪念があるからで、邪念があるのは唯物主義を信奉して神の実在を信じないからで、神の実在を信じないのは神を信じさせる宗教がないからである。とすれば、神の実在を信じさせる宗教こそ、生きている宗教というべきであろう。

 才智とは浅智慧であるから、一時はよくても、時がたつと必ず失敗したり、信用を落したりする。

 奸智とは邪悪の智慧で、悪智慧ともいう。悪智慧が抹殺されると、明朗な社会が出現する。悪智慧を抹殺するには、悪智慧の発生地を全滅させることである。そのためには神の実在を信じさせる力ある宗教の活動によるほかはない。