発端

 大火に遭遇した熱海の焼け跡もなまなましく、復興もまだ軌道に乗らない昭和二五年(一九五○年)の五月七日、夜八時ごろのこと、熱海警察署に勤務する信者・市野久が本署に呼ばれた。

 「明朝六時に国警の人が来るから、その人たちをその指示する場所へ案内せよ。」
という指令を受けたのである。どこへなんのために行くのかという説明はいっさいなかった。

 明くる五月八日は寒い朝であった。打ち合わせ通り国家地方警察・静岡県本部から七十余名の警察官が到着したが、その行く先を聞いた市野は驚いて自分の耳を疑った。捜査の対象は碧雲荘、東山荘など世界救世教関係の建物七か所であったからである。

 市野は昭和二〇年(一九四五年)に重い結核の病を救われて入信し布教に励んでいた。しかし、ある時上司に呼ばれて活動をやめるよう厳命を受けたので、やむをえずお守りをはずしていた身であった。もう少し早くわかれば何をおいても一報できたのにと悔やまれたが、すでにその時間的余裕はなかった。

 その朝、ただならぬ気配に目を覚ました教祖は蒲団の中でじっと耳を澄ました。台所の方が何やら騒がしい。と思う間もなく奉仕者の一人があわただしく部屋へはいってきて、
 「今、警察の人が大勢見えて、調べに来たといっております。」と言う。取り調べを受けるような心あたりのない教祖は、驚くというより、むしろ不思議に思った。

 すると早くも、
 「ぼくはこういうものだ。」
と男の声がする。捜査令状を見せたのであろう。その様子が襖越しに手に取るように聞こえてくる。事態の容易でないことを覚った教祖が、起き上がって襖をあけると、一人の私服警官が、あちこち何かを捜している。男は、
 「起きるには及ばん、寝ていなさい。」
と教祖を制して、引き続き捜索を続けている。碧雲荘に乗り込んで釆た私服は一二、三人を数えた。そして八時間に及ぶ家宅捜索の末、書類、郵便物、銀行通帳、現金などを押収して引き上げていったのである。

 この日、警察当局は、教祖の秘書を勤めていた井上茂登吉と、造営部部長・金子久平を逮捕するとともに、熱海市内の各建物と小田原の五六七大教会本部など、合わせて八か所を急襲したが、刑事、警官を含めて総勢八〇名が動員されるという大がかりなものであった。いずれの建物も捜索は非常に念入りで、とくに清水町の仮本部は、押し入れの根太床下に渡す横木)をはずし、縁の下まで調べるという徹底ぶりであった。警察が、何か隠匿物資の摘発を意図していたことは、この事実からも明白である。

 これがその後、足かけ三年にわたって教団を揺さぶった、いわゆる「法難事件」の発端であったのである。

 なお、この時逮捕された金子は、新潟県の生まれで、昭和一五年(一九四〇年)、宝山荘の時代から教祖の側近で奉仕をし、約二年間の軍隊生活の後、復員してからふたたび教祖の側近に戻って奉仕を続けた。その行動力と判断の早さを買われて造営部部長となり、瑞雲郷の土地の購入や造営の監督に大きな貢献をしたのであった。