昭和三十年の八月一日から四日まで、東京において、宗教世界会議の本会議が開催された。ここに世界各国のいろいろの宗教や宗派の代表者たちが一堂に会して、相互の連絡、提携、協力を申しあわせ、「世界宗教連合」の結成を議決した。これらの人々の心の底には、宗教、宗派の相違をのりこえて、世界は一つになろうとする融和の精神が、さわやかな響きをたてて流れていた。
国民には国籍があるが、真理には国境がない。宗教には種類があるが、宗教の理想たる人類愛には差別がない。世界には無数の宗教があるが、その目ざすところはただ一つである。一つの人類の愛のなかに融和して、世界は一つになろうとする。ここには「一つの世界」があって、「二つの世界」はないのである。
同八月十二日、午前九時から、宗教世界会議の地方会議が、熱海瑞雲郷のメシヤ会館でひらかれた。外国の宗教代表は約三十五名、国内の代表約四十名、これに主催者たるメシヤ教の幹部役員、および来賓多数が参加し、会場にほ二千五官の信者が参集した。名づけて宗教世界会議熱海大会という。
十時から会議に入ったが、外国の一代表はいう。宗教の使命は、世界人類を教化して幸福にすることであるが、精神的にも物質的にも、人類を幸福にすることを目標とする世界メシヤ教に賛意を表し、共鳴を禁じえないものであると。
また一代表はいう。われわれ世界の宗教家は、ひとしくおなじ意見をもっている。すなわち宗教を基礎にした新しい世界を建設しようということである。しかし、ここに集るものは小数である。しかも人類の大部 分ほ宗教にそっぽをむいているではないか。特に科学者、共産主義者をはじめ、無神論者や懐疑論者があまりにも多いではないか。しからば宗教家は、どうしてこれらの人々を、宗教の世界にみちぴき入れるか、ということである。これか問題である。それについて、一つの示唆はある。そうしてそれが、一つの手がかりとなるのではなかろうかと思う。
私の一知人が、宗教を否定している共産主義の国、ソ連から帰っての話である。それは共産主義の国民の心の底にも、宗教ならぬ一種の宗教をもつているということだ。さらに科学者はもちろん宗教などはもっていないが、身命を堵するような実験や研究において、その心の底には、宗教心に通ずるあるものが、厳然と存在するということである。この厳粛な事実──これがその手がかりとなり、ここから宗教がはじまるものではなかろうか、と。
たしかに、この厳粛な事実に、宗教家は着目すべきである。こうして宗教世界会議がひらかれて、人種や国々、宗教や宗派をそれぞれ異にしても、それぞれの宗教の目標は、宗教によって人類を教化し、世界の幸福と平和をもたらせようという点では、すべて同一である以上、お互の融和、提携、協力は一段と必要であるという点からも、宗教相互の相剋や宗派争いは、もはや今日の時代のものではない。宗教も漸く大人の時代になってきたのである。宗教において、世界は一つになろうとする心が、動きそめていることをはっきりみてとることができた。宗教はいまや世界にむかって、ひらかれた窓である。
十二時、宗教代表と水晶殿のお茶の会にのぞむ。外国代表と握手して、はるかなる海のかなたの国々を思う。ひろく世界にひらかれたメシヤ教でなければならないとは、明主の理念であった。そこで明主の宗教についての考え、メシヤ教の特色について述べてみよう。