今度、いままで私の書いたいろいろなものを選<よ>り分けて「救世教の聖書」といったようなものを作るということになって、その「序文」を書いてくれと言われたので書いてみました。これはつまり「救世教というものはどういうものだ」ということの急所だけを書いたものですが、これはみんな分かっていますが、しかしいくらかまた、組み合わせ方が、こういうふうだというようなことも参考になるわけです。
(御論文「救世教とは何ぞや 序文」朗読)〔「著述篇」第一二巻二四五ー二四八頁〕
それから薬を解剖してみたのですが、解剖してみると、薬というものはぜんぜん科学ではないのです。一口に言えば迷信です。「そんな馬鹿なことはあるものか」と、第三者としたら思うわけですが、そういうことを言えないように書いたつもりです。
(御論文「薬剤は科学?」朗読)〔「著述篇」第一二巻二五三ー二五六頁〕
いま読んだような具合で、薬というものはぜんぜん科学性がないわけです。ただ「効くだろう」というわけで、最初動物実験で、服ましてみたり注射してみると、どうも成績が良い。「では一つ人間にやってみよう」というわけで、人間が第二の実験材料にされるのです。そうして「良い」というわけです。ところが「良い」というのが短いのです。一カ月か半年ぐらい効くと「これは良い」と、売り出したり学界に発表するのです。ところが、一年も二年も先になって逆効果があるのです。そうなるとすたってしまうということになるのです。ところが薬は浄化停止ですから、必ず逆効果になり、効かなくなるということに決まってます。だから一つ薬が長く続いたということはないです。それにまだ気がつかないのですから、やっぱり「超愚」のほうです。そういうような具合で、薬というものはぜんぜん科学性はないわけです。つまりまぐれ当たりを狙っているわけです。それを、さもさも科学で発見したかのように、ハヤシ立ててます。やっている御本人自身は実に馬鹿げているのですが、またそれをありがたがって信じる大衆もずいぶん「超愚」です。そのためによく新聞に出ている「心臓が治った」とか「肝臓が治った」とか、よく発表してますが、あれらはちょっとした実験の結果良いので有頂天になってしまうのです。しかししばらくたつと煙<けむ>になってしまうので、そういうことを年中繰り返しているのですから、実にかわいそうなものだと思います。つまり、医学ではぜんぜん治らないものを治ったように信じて、ちょっと良いと「これだ」というように思っているわけです。だからその犠牲になる人間こそ実にかわいそうなものです。けれどもしかし、それはもう長いことはないです。ちょうど自然栽培みたいなもので、ある時期が来ると、分かり始めると早いです。
こういうことを知ってなければならないのです。そういう、人間に害を与えるようなものを、いったい神様はナンデ作ったか、なぜいままで人間にそれを分からせなかったかというわけですが、これはたいへんな深い意味があるのです。というのは、物質文明を発達させるには人間を弱らせなければならないのです。原始時代の、病気もない非常に丈夫ですと、人間はそれに満足してしまうのです。とにかく神様の目的は、物質文化を発達させて、そうして真善美の世界を造るのですから、それにはどうしても人間を弱らせなければならないのです。交通機関の発達も、人間が弱るから発達するのです。どんなに遠い所へでも、山野を跋渉<ばっしょう>しても、足が丈夫なら交通機関を発明しようという心も起こらないのです。文明の発達ということは、前に外国の学者が言ったように「文明の発達というものは、人間が無精になるから発達するのだ。なにかやるにも億劫<おっくう>だ、面倒くさいというそのために発明や発見が現われるのだ」ということを言っているのを読んだことがありますが、なるほどと思います。それには体を弱らせなければならないのです。だから、体を弱らせるほどいろんな便利な物や、それから美しいものを感じるという感覚、一つの、神経が鋭くなるとか、あるいはものに感じやすいということになるので、それには、体を弱らせなければしかたがないのです。それで弱らせるには毒を服ませるのです。しかしそれを毒と言ったら人間は服まないから、それを薬に思わせようという神様のトリックです。薬というものは良いものと思った人間は、神様に瞞<だま>されたわけです。神様はひどいと思うかもしれないが、しかたがないです。神様の経綸というものは、人間の、二、二が四とか、二、四が八ではないので、二、二が八にも、二、三が九にもなるのですから、霊妙不可思議なものです。ところがそのために文化が発達したのですが、今度はこれ以上文化を発達させるとマイナスになるというわけです。ちょうど、発明発見が進んでいって原子爆弾のようなものができたようなものです。……原子爆弾は神様が作ったということを、娘が霊憑りになって言っていますが、おもしろいので、今度『地上天国』五八号〔「著述篇」補巻三、七三六頁〕に出します……。そういうようなことで、いままでの人間にはちょっと不思議に思うようないろいろな事柄も、そういったような深い意味があるのです。唯物文化を発達させるために人間を弱らせておいて、今度は薬は毒だということを言って、反対に健康を取り戻すわけです。それが救世教の一番根本の仕事なのです。そういうわけだから、薬という毒をどういうわけで人間が服むようになったかということの根本を話したのですが、そこで薬というものは神様が作ったものです。その一番の証拠は、薬師如来と言って、観音様が薬師如来に化けられるのです。そうして大いに薬を奨励したわけです。もっともその時分には科学はないから、草根木皮を大いに服まして弱らせたわけです。その観音様が今度は「あれは毒だ」と言うのですから、観音様もなかなか……つまり瞞したり本当のことを言ったり、要するに千変万化、虚虚実実というわけです。観音様はあらゆる面に働きをされる、化けるというわけです。そして観音様は悪魔にもなるのです。馬頭観音というのは悪魔です。つまり動物の働きです。そういうような具合ですから、人間の智恵やそういったもので分かるということは難しいのです。
今度の神懸りの中にこういうことがあります。共産主義者などに対して、悪の役をするのはずいぶん骨が折れたので、御苦労だったという慰めの言葉もあります。たしかマレンコフなども、そういった、神様が御苦労だったと言ってました。悪を通すとそういうようで……スターリンもそうですが、スターリンはいま霊界の最低地獄、極寒地獄にいて、結局六千年若しんで滅びるということを言ってましたが、そこは私は○○年としておきました。そういうようで、悪いことの御用を仰せつかってやっている霊もあるのです。だから神様のやり方は実に深いのです。
それから、「半文明半野蛮の世界」という、これもいままでにもだいたい書きましたが、これはごく分かりやすく書いたつもりです。
(御論文「半文明半野蛮の世界」朗読)〔「著述篇」第一二巻二六五ー二六七頁〕
みんな始終見ているでしょうが、地上天国はだいたい予定どおりにできつつあります。これも無論神様がやっているのですが、あそこに行く道路、つまり一番厄介なのは小田原、熱海問ですが、この道路もだんだん方針が具体化し、実行にかかる形勢になってきました。最初は熱海、湯河原間を海岸のほうを埋めて、そこにドライブ・ウェーみたいなものを作ることになって、ボツボツ始めているようですが、一番先にできるわけです。その道路が分かれて、ちょうど地上天国に行くような自動車道路ができることになりましょう。そうして次に湯河原、小田原間も順々にできることになってます。小田原、熱海間はいままで一時間ですが、半分の三〇分で行くだろうと思います。そうすると東京から来るとして、東京の端のほうからなら一時間半ですが、東京の真ん中辺からでも、優に二時間半で来られますから、日帰りで地上天国なり美術館を見に来られるわけです。
そうしたらよけいたいへんなことになるだろうと思います。それで、この地上天国ができると、世間の人がいろいろ批判もするし考えもするでしょう。「どうしてわずかの間にあんなすばらしいものができたか」という疑問もあるし、それを聞きたがるということもあります。そうなったら、新聞記者だとかそういう者がずいぶん聞きに来るだろうと思います。これをもっと分かりやすくいうと、無論力ですが、だいたい一番は金力です。その次は胆力、度胸です。その次が智力です。この三つの力です。これは人間的の考えでゆけば、そういうふうに見るのはあたりまえですが、こっちのほうはその他に神力が入っているのです。その三つの力を働かせるその力が神力です。なるほど金の力と言ったところで、それを元から持っているわけではないし、政府事業やなにかではないので、つまり救世教に献<あ>げる人がなくてはならない。それをだれがやるかというと、神様がやるのです。それから胆力でも、確信のない胆力を出しては失敗してしまいますが、確信があるということは、神様がそういう力を現わすのと、もう一つは、すべての条件が楽に無理がなく、そういうように進んで行くように神様がし向けるということと、熱海なら熱海という、ああいう風景を一目で見られるような、地形なり、石や木や、材料も、神様が前から用意してあるということです。それから智力というと人間が考えるようなものですが、そういうことはないです。客観的に見れば智力ですが、私自身としては智力などはないのです。なぜと言って、考えることはないのですから……。ただ、あそこに行けばパッバッと、浮かぶ、と言いますか、浮かぶということでもまだまわりくどい言い方です。ヒョッと分かるのです。だから本当は智力でもないので、神力です。そういうような具合だからして、説明できない、要するに不可思議力です。観音様が言う妙智力です。不可思議力、妙智力と言うが、たしかに妙智力です。さもなければ短期間にあれだけのものができるわけはないのですから……。そう説明しても、だれでもなるほどと思うわけです。実際にあれを見れば、他に考えようはないです。まだまだいまでも想像もつかないようなものになります。それで美術品も、神様は、ちょっと売り物に出ないような物を、チャンとこっちに入るような順序がついているのです。神様の計画というものは実にたいしたものです。それと、霊界において、昔の立派な芸術家や、いろんな大名だとか、将軍だとか、そういう人たちの霊が非常に働いてます。立派な美術館にするために……。それでその霊の奥にある産土の神様とか、八百万の神様でも高級なほうの神様が、いろいろ指図したり力を貸してやってます。だからああいう美術館を作るのや…‥それは生きた人間を使わなければならないが……私は、そういった現界の仕事をするのでも、私の背後にはいろんな神様、いろんな霊が大活動をしているのです。だから思いもつかないことがフッと来るようなことがありますが、「これは働いたな」と思います。その根本が分かれば、あたりまえのことで別に不思議はないのですが、ただ、できたものを見ると、わずかな間にどうしてこんなものがと思うのです。第一、道具屋とかそういうことに心得のあるものは、どうしてわずかの間に手に入ったのだろうと思いますが、霊界を知らないのですから無理はないです。
来月の九日から三越で浮世絵肉筆の展覧会がありますが、主催は箱根美術館で、後援が毎日新聞社、文化財保護委員会です。いままで浮世絵展覧会というとほとんど版画であって、肉筆というのは初めてです。これはたいへんな評判になるだろうと思います。どうして肉筆がわずかの間にこんなに集まったのだろうと不思議に思うに違いないですが、これはまた版画より集めにくいものです。版画というものは昔から庶民階級にたくさんバラまかれてますが、肉筆というものは、大名とか富豪でなければ持ってないのです。それが短期間にそれだけ集まったということは、実に奇蹟です。
(御講話おわり)