八人目の聖者=光・浄霊による救い

 昨日面白い事がありました。この間の春季大祭の時に「今まで五六七のミロクだったのが、今度は三六九になる」と言いました。ところが、昨日の参拝者が″三六九名″なのです。春季大祭の後は、昨日が初めてですから、そこにそういう数字が出たという事は、実に神様は自由自在という事が分かるのです。

 神様は、よくこういう事をやられるのですが、これは神様の茶目です。つまり″神様の力はこんなものだ、どんな事でも訳なくやる″という事をば、御見せになるわけです。だから、あなた方が参拝するのも、神様の方で、今日は誰、今度は誰、という事は、チャンと決まっているのです。

 それからこの間ちょっと話した、若い婦人で、キリストが憑ったという話しをしましたが、今までの事を書いて来いと言ったものですから、書いて来たので、それを読ませます。

 (御報告)

 これは、何かのいたずらなどは入ってないので、本当です。

 この中に、いろいろな意味がありますが、私か一番感じたのは、キリストの言う事が、おそろしくくどく、丁度バイブル的に言われているのが面白いです。バイブルは、弟子が書いたのですが、キリストの不断のお説教や何かが、こういったような言い方だとみえるのです。

 それで一番面白いのは″神ならぬ神″と言ってますが、これは非常に面白い言い方と思います。

 実際、今まで神様と言っていたのは、本当は神様ではなかったのです。神様の代理とか、弟子とか、そういう意味だったのです。

 ですから、キリストも″自分は神だ″とは言わなかったのです。いよいよ待望の救世主が現れたと言ったのです。ところが実は救世主ではないのです。そこでかえって、それを誤るといけないから、十字架にかかった、という意味もあるのです。そこでこれは、人間でも神様でもそうですが、特に神様は厳正ですから、その位に、ピッタリしないと苦しいのです。

 そこで今読んだように、自分をあまりに讃えた歌は苦しい、だから歌う歌を、自分が作って、そうして言わせたのです。なかなかよく出来てます。これを、今度のメシャ会館に使おうと思ってます。曲はヘンデルの「救世主(メシヤ)」ですが。歌詞はこれにしようかと思っているのです。

 ここにやっぱり、大変な意味があるのです。私が作って、みんなが歌うという事は嘘なのです。つまり私についている神様自身が作って、讃えるという事は、理屈に外れているのです。そこで歌う人の、一番偉い人が作って、そうしてみんなが歌うという事が本当です。それが合理的です。

 キリストが、こういうふうに歌ってくれと、歌詞を作ったわけです。なかなか良く出来てます。神様を讃える気持ちが、実によく出てます。これを歌詞にしようと思ってます。まあ、私の方で助かったわけです。

 御讃歌などもそうですが、あれはみんな私が作ったけれども、お陰をいただいて有難い、というような事を、私か作るという事は本当ではないのです。まあ、信者さんの代わりになって作ったようなものですが、ああするよりしようがないから、ああ書いたのですが、本当から言うと、今言ったとおりが本当なのです。

 それから、右に関することは、この間、京都の或る婦人が、やはりキリストや、その他いろいろな人のことについて出たのと、同じようなのです。それが東京と京都と、こんなに離れて、別に話し合った事もない知らない人が、同じようにチャンと合うのですから、これらも面白いと思います。

 それからその後、まだいろんな霊がでました。なかなか面白いのです。ヨーロッパ方面、アフリカ方面の各湖水、池、海というような所に居る龍神が、それぞれお詫びやら、大いに働かしてもらいたい、という願やら、いろいろありました。

 神様でも、仏様でも、全体の霊が、一番に光を欲しがるのです。ですから今も読んだとおり、マホメットなども、非常に光に憧れているのです。又その後出た龍神や、いろんな神仏も、少しでも光に浴したい希望です。

 というのは、今までの人間で、神様の光というものを持った人はなかったのです。そこで、ヨハネなどが、二千七百五十年間地獄に居られたわけです。それからキリストでさえも、そういった人でも、つまり救われなかったのです。

 というのは光なのです。光に浴する事ができなかったのです。

 ところが私が出て、霊界が明るくなり、それからまた、光に浴する事ができたために、救われたわけです。だから理屈は簡単なのです。

 つまり罪穢れにより・・・・しかし、ああいう神様が、罪穢れというのはおかしいですが、大体キリストが、十字架にかかったというのも、前の世に、非常に大きな罪をした、その犠牲になっての、贖罪です。そこで、十字架にかかったわけなのです。それだけでは、すっかり救われないのです。そこで、長い間苦しんでいたのが、光に会うと、その罪である曇りが溶け、消えるのです。それで救われるのです。だから、とても光を憧れているのです。

 それともう一つは、″今度罪を消されないと永遠に残るのです″。それは、軽い罪は昼間になると消えますが、しかし軽い罪の人はほとんどないので、みんな重いのです。丁度あなた方が、浄霊して、幾らでも毒があるようなもので、チットやソットのものではないのです。

  ″重い罪の人は永遠に消えないのです″。今の内に早く光に浴して、助からなければならない、というので、あせって急いでいるわけです。というのは、霊界がドンドン昼間になりつつあるからです。だからそれを知った人はよいが、知らない人は、実に可哀相なものです。

 それで面白いのは、この次に読ませますが、いろいろな龍神の中で″自分は破壊の役だからして、それを一生懸命やる″というのです。これは破壊と言ったところで、悪ではないのです。つまり掃除です。掃除というのが破壊なのです。悪いものは、ブチ壊して、片づけてしまう、というわけです。大掃除の時に、壊れかかった物や、役に立たない物は、ブチ壊してハキダメに捨ててしまう、という役の龍神があるのです。自分は、破壊の役の龍神だから、それを一生懸命やる、という事がありますが、そうしてみると、大いに破壊の時も来るわけです。どういうふうにして、破壊するかという事は神秘です。今大問題になっているのは水素爆弾ですが、これらにしても、大変な役をするのだろうと思います。あれくらいの物が出来なければ、地球の掃除はできないでしょうか・・・・。

 とにかく、その大掃除に助かるには、光をいただいて、そうして穢れを無くさなければならない、というわけですから、とにかく、救世教信者になった人は、その幸福たるや、とても大変なものなのです。それも、だんだん分かって来ます。

 だから、キリストや、マホメットなども、救われたという事は、先に述べた婦人を、浄霊している内に、キリストや何かが、助かってしまったわけです。

 だからとにかく、浄霊という事が、いかに偉大なものであるか、という事は、霊がみんな証明しているわけです。

 それから、今度来たハワイ通信の中に、ちょっと面白い一駒がありますから、読ませます。

 (ハワイ通信 十八) 【註 栄光二五七号】

 これは英語教修の時のことです。四十人ばかり英語教修をしたのですが、その中に十人ばかりアメリカ人がいて、その中の一人で、将来非常に慟く人らしいです。

 その人の曰く″明主様が八人目の聖者に当たられる″というのです。この「八人目の聖者」という事は、古くから伝説にあるのです。八人目というのは、仏教の方では釈尊だと言う事を言ってますが、釈尊は七人目というわけです。それは仏教の方で、お釈迦さんに値打ちをつけるために言ったのだろうと思いますが、この人の言う事が合っているわけです。

「御教え集第33号」 昭和29年4月6日

御教え集