瑞雲郷の造営に当たっては、明主様は連日、現地の工事視察にお山へお登りになっていまして、私もしばしばお供を許されましたが、明主様がいろいろ説明して下さる、美しくて壮大なそのご構想もさることながら、一日一日と、明主様の一歩一歩から、眠れる一本一草が力強い息吹をよみがえらせる──その事実が実に感銘ぶかく思い出されます。
ある日、山頂で、私は明主様に申し上げたのです。
「この下の方の町が見えないようにはできないでしょうか」と。 すると明主様は言下に、『ああいうものもないといけないのだ。あるから全体が生きるんだ。いわゆる、いい景色ばかりで、その中に微塵の俗気というものがなかったら、かえって全体としておもしろくなくなるのだ』とおっしゃいました。
なるほど、南画を見ると、幽邃な山水の中にも、人の住む家などが添えてある。このいささかの人間臭さが、かえってその山水を清浄なものに見せるのだと、悟らせていただきました。