私が神奈川県の金沢にある旦那さま(明主様)の別荘へ奉公に上がったのは、大正五年、私が十六才の時で、それから東京京橋大鋸町のお宅へ上がるようになり、二十一才の春までお世話になりました。
旦那さまはとっても潔癖で、顔をお洗いになるにもずいぶん時間をかけていらっしゃいました。手をお洗いになるにも、いつまでも洗っていらっしゃるので、おかしくなるくらいでした。そして、その手を手拭ではお拭きにならないで、夏でも火を起こして、その火であぶって乾かすというやり方なんです。
うがいは、大きなコップで二杯ぐらいで、鏡にむかって歯をみがかれますが、歯がお悪かったので、ずいぶん、これも丁寧になさいました。大鋸町では、朝八時にご飯を召上がって、そして八重洲口近くのお店へお出かけになりますが、夕食はおそくなってもお家で召上がられました。
そして、夕食後はかならずお散歩です。これは雨が降っても、雪が降っても同じで、夜の街をチョコチョコと早や足で歩かれます。
旦那さまは義太夫がお好きでした。よく奥さまと芝居へも行かれました。帝劇の水野早苗という女優がひいきで、二百枚ぐらい切符を買って、みなさんに差上げたということもありました。
旦那さまは奥さまの着物の図柄をご自分で描かれて、それを染めさせたということもありました。
旦那さまは、私ども奉公人にもやさしかったけれど、夜おそく足をもませられるのはつらいと思いました。眠くて眠くて、いっそ家へ帰ってしまおうかと思ったこともありました。でも、旦那さまとしてはよく気のつく、きびしいけれど心のおやさしい方でした。
大正何年でしたか、米騒動が起こって、あちこちで群集が騒ぎました。旦那さまは、『上野の様子はどうだ。見て来なさい』『日比谷はどうだ。聞いて来なさい』というわけで、しまいには、袴をはいて、ステッキを持って……。これは自衛のためでしょうか。それとも野次馬気分なんでしょうか。旦那さまは、ああいうものを見にゆくのがお好きでした。
それはそれとして、旦那さまはお客さまが見えると、『男爵の茶碗を出すように』と言われて、その茶碗は当時一個二十円もしたそうですが、それをお食事に使われました。
ところが、その大切な茶碗を、ひとつ女中さんがあやまって割ってしまったことがありました。その時は、私もどうなることかと心配しましたが、すぐお詫びしましたら、『これから気をつけなさい』と許して下さいました。旦那さまは嘘が大嫌いでしたから、隠していると大変でした。
とにかくお客さまが来られると、自慢の軸物をお見せするのを楽しみにしておられましたし、そしてお客さまには、ずいぶん細かいお心づかいをされました。人によっては、お料理もいろいろと指図されました。