『よかったね』のひとこと

 昭和二十年の九月二十八日のことでした。ちょうど、私どもの教会の会食会(当時は各教会で会食会を開き、明主様をご招待していた)の日で、私は平塚まで材料の買い出し出掛け、鶏二羽をやっと見つけ、それを持って箱根のお屋敷へうかがったのですが、着くとすぐ、お風呂に入れていただきました。ところが、風呂から出ると、急に気持がわるくなって倒れてしまいました。

 このことを明主様に申し上げた奉仕者がいて、明主様はわざわざご浄霊をして下さったのでしたが、その時私は、「こういうことになるのは、私の罪が深いからでしょうか」とおうかがいいたしますと、明主様は、『いま、あんたは生かされているじゃないか。心配するな』とおっしゃり、さらに、『みんな霊的なのだ。すべての病気がそうなのだ。許してもらうために、懸命にやりなさい。御用をね』とやさしくおっしゃって下さいました。

 そして、そのあと、すわり直されて、明主様が朗々と天津祝詞をあげられたのです。終戦で信仰の自由が認められてから、初めての天津祝詞です。あまりの意外さにまわりの人がびっくりして、ペタペタとすわってしまいました。 その祝詞が一回終わったとたんに、私の胃の苦しさがスーッと抜けました。

 「苦しいのが、どこかへ行ってしまいました」と私が言いますと、『よかったね。罪が許されたんだよ』
と明主様も喜んで下さいました。