忘れられないご恩情

 大正三、四年ごろと思いますが、亡くなった主人が三越の仕入部長をしております時に、岡田さんのお店へ立ち寄り、「小間物屋さんと取引したいのですが、どこかありませんか」と聞いたのです。

 すると岡田さんは、ご自分のことはおっしゃらないで、他のお店のことばかりおっしゃったのです。

 それで、主人はそれに非常に感じ入ったのでしょう。つまり“普通の商人とは違うなあ”と思ったのです。そして、その時はそれでおいとましたのですが、つぎに伺った時、岡田さんにむかって、「先日伺った際、あなたはご自分の店のことは全然おっしゃらなかった。普通なら他の商店のことはけなしても、自分の店のことを宣伝するものですのに」ということで、岡田さんのお人柄に感心して取引をお願いしたように聞いております。

 それ以来、岡田さんとは非常に懇意にさせてもらいました。

 岡田さんとは、いつも主人ばかりがお目にかかっておりましたが、私どもが池袋に住んでいました時、関東大震災のあと、初めて私は岡田さんにお目にかかりました。

 それは岡田さんのお店も焼けてしまい、もうそのお店の権利も支配人に譲って、ご自分は商売をやめたいということで、私の家へ挨拶においでになったのです。

 その時の記憶として、おつむが真っ白で、非常に温和な感じの方であったように覚えております。桐の箱にギッシリつまった鰹節を持っておいでになりました。

 そして、『自分はこれを契機に宗教に専心したい。店は支配人に譲りますから、あとあともよろしく頼む』とのお言葉でした。

 その後、主人は亡くなり、岡田さんも熱海の方へ行かれまして、自然にご無沙汰をしてしまいましたが、そのあいだ、私の家もつぎつぎに不幸に見舞われ、私もある宗教に救いを求めるようになりました。

 そんなある日、新聞で岡田さんのことが報道されているのを見て、初めて熱海で盛大にご活動になっていることを知ったようなわけでした。そして、私は家庭的な不幸に加えて、経済的にもずいぶん困窮しておりましたので、昔のよしみを思い出して、清水町へお願いに上がりましたのが、昭和二十四、五年ごろだと思います。当時私は生計にも困り果てて、タワシの行商をしておりましたので、それを買っていただこうとお伺いしたのでした。

 清水町の応接間でお待ちしておりますと、岡田さんがタバコ盆をお抱えになって、ヒョコヒョコお出になっていらっしゃいました。池袋のころにお目にかかって二十七、八年ぶりのことですが、たいしてお年を召したようには見えませんでした。

 それで、「主人に先立たれてから売り食いをして今日まで生活して来ました。現在は行商をしています。ついては、こちらへ品物を持ってまいりました時は、ぜひお買上げいただきたいのです」と申し上げましたところ、岡田さんは、『買ってあげるけれども、あなたがいちいち熱海まで持って来るのは大変だから、幸い東京の常盤台にうちの支部があるから、そこの人に頼んで持って来てもらうようにしなさい』とおっしゃって下さり、おそばの女の人に、『この方はね、昔私が三越と取引をしていた時、お世話になった方の奥さんだから、もし今度こちらへいらした時は、あんたが応対してあげなさい』とおっしゃっていました。

 ほんの短い時間でしたが、岡田さんからとても親切にしていただいたご恩情は忘れることが出来ません。そして、岡田さんとはこの時一度だけのお目もじになってしまったのです。

 岡田さんは、やはり商売しておられるころから、どこか普通の商売人とは違っておられたと前に申しましたが、たとえば、ただお金を儲けて、金力、権力といったような名誉心などは微塵もなかったそうです。店員が何か失敗しても、決して事を荒立てて叱ったりされなかったそうで、岡田さんがお店をおやめになって後、ずっとそのお店を引き継いで来られた福本さんという方から、よく伺いました。

 その福本さんにも、岡田さんは、『いまに金の延べ棒を一本やるから』とおっしゃったことがあるそうです。

 昔の岡田さんは、ずいぶんご病弱であられたり、貧苦に悩まされられたようですが、やはり、そういうことにお負けにならない強い心をお持ちになっていられたからこそ、あのような神人合一、すぐれた宗教家になられたのだと思います。