私の父は、当時近所に住んでおられた先代の坂東三津五郎丈の紹介で、岡田さんにお目にかかり、ご昵懇に願っていたようですが、私が岡田さんにお会いしたのは熱海へ移られてからです。
というのは、戦時中、私の家内と娘が熱海の水口園のそばの家に疎開していて、家内はときどき浄霊を受けていたので、そんな関係から、私も幾度か岡田さんにはお目にかかっています。
最初に伺ったのは東山荘でした。その後、家内と娘が東京に引上げてから、昭和二十四年でしょうか、清水町のお宅に招かれたことがありますし、碧雲荘にも伺ったことがあります。
岡田さんのお話は、軽い世間話もされましたが、主として美術品や人間の心構えといったもので、私は岡田さんのそのご趣味からも、また宗教家としての見識からも、大変心をうたれました。ただ、そういうお話の内容を具体的に記憶していないのが残念ですが……。
岡田さんは、説教によってよりも、徳の力によって多くの信徒を集めた方です。説くことよりも、徳そのもので、もろもろの人をまとめ、また、悩みをもつ者を救われたのでしょう。これが、教団の今日を成さしめた大きな動因と思います。
とにかく、もう一度お会いして、お話を聞きたいと思う人です。苦労をされただけに、そのお話には、人を惹きつけるものがありました。
家内に言わせますと、岡田さんは、陽気で派手で、ザックバランで、下情にも通じていらして、太閤さんのようなお人だそうですが、ことに時間というものに厳しく、その点では、家内は岡田さんから賞められていたようです。
というのは、父が躾けにやかましかったので、家内も嫁に来てから、自然にそういうことが身につき、時間などもルーズにはしなかったんです。あるとき、岡田さんから、『私は毎日大勢の人に会っているが、時間というものをいいかげんにする人が多い。しかし、あんたはいつもキチンキチンと時間通りに来るのには、感心する』
と言われたと喜んでいました。
ザックバランと言えば、箱根で、岡田さんは、ご自分で切った庭の花を、ご自分で活けて、床の間に飾られていましたが、『どうだ、うまいもんだろう』といわんばかりのご機嫌もさることながら、客をもてなすということでは、ほんとうにこまかい心くばりをなさる方でした。
あるとき、大事にしていらした乾山の鉢を出して見せて下さいましたが、いかにもその品物がかわいくてたまらないという愛情から出た緊張感からも、客を真底から接待することが楽しいという温かい気持がにじみ出ていました。
私の場合は、たいてい食事をしながらのお話でしたが、こちらが何を言っても気を悪くなさらず、ご自分でしゃべるというより、むしろ、私の話を聞くのがうれしいというふうで、こんなところにも、言わば“殿さま”という風格が感じられました。
家内は、茶をやっていますので、その方で奥さまともお心やすくおつきあいさせていただきましたが、岡田さんも、いわゆるその道の数寄者で、道具類を集めるのがお好きであったばかりでなく、事実、名器を鑑賞する力をもっていらしたと思います。
いい時代に、いいお人がいて、すぐれた名品が数多く集められ、保存されてきたということは、大きなお手柄だと言ってよろしいでしょう。
からだは小さいが、大きく見えました。一代の英傑だと思います。
そうそう、いつか碧雲荘にお招き受けて、私は下手な常盤津を、家内の三味線でうなったことがありましたが、そして、奥さまやおばさまは賞めて下さったのですが、岡田さんはなんともおっしゃいませんでした。義理にも賞められないと思われたのかもしれません。