教祖という方は、ことにその人柄が立派で、私に話される時も非常に丁重で、『これはこう、あれはああ、自分はこう考えている』といったように穏やかな話し方をなさいました。
また、教祖は人間が大きくて、よいことがあるから大喜びし、反対に悪いことがあると悄気るというようなことがなく、いつも平然としていられる。これにもいつも私は感心していました。
あの事件(法難)の時も、私は弁護に立ちましたが、そのあと、教祖は、『心配をかけたね……』とは言われましたが、気落ちするとか、腐るとかいうことはなく、特に態度が変わったとは見えませんでした。
この点も、教祖の偉さを現わしていると思います。
事件後に、特に感想をもらされるということはありませんでした。控訴を断念してからも、何も言われませんでした。普通の人でしたら、〝控訴すればよかった。そうすれば無罪になったのになあ″ぐらいの愚痴はこぼすんでしょうが……。
とにかく宗教家臭いところのなかったこと、これに非常に感心しました。たとえば強羅の日光殿で、教祖の側で映画を観たことがありますが、教祖はほんとうに愉しそうで、周囲の人を気にすることもなく、そうかといって私にはとても親近感が感じられ、これはおもしろいとか、その他いろいろと映画の話をされて、決して宗教家ブルなどというところのない、親切な方という印象を強く受けました。
やはり一宗の教祖として立つような方は、偉いものだと思いました。見識も高いし、観察も深く、それに驚くべき才能をもった方だということに感心しました。