素直で暗さのない歌

 岡田茂吉さんの歌について、あれこれ思い出すことをお話しましょう。

 私が大本に関係した昭和八年から十年のころは、岡田さんはもう信仰的には独自のものをもっていて、あまり本部へも来られなかったのではないかと思います。

 従って、私とはあまり直接的な接衝はありませんでした。一、二度程度です。

 さて、私が本部へ行くまでは、だれが選者をやっていたか知りませんが、私が行ってからは、献題によって何万首にもぷる信者の投稿歌に目を通して、予選会を私ひとりでやっていました。

 その予選会で選ばれた歌を、当時明光社長であった大国さんの奥さんが、さらに銓衡され、最後に聖師さん(出口王仁三郎師)が選ばれて、それを明光誌に掲載していたわけです。

 そして、天、地、人、佳作という順位の賞を設け、天の巻を十五冊、つまり一位を十五回とると、「月の家」という雅号がもらえる仕組になっていました。岡田さんは、月の家暉月という雅号をいただいておったのです。

 しかし、正確に言うと、この月の家の雅号を取るには、短歌だけではなく、短歌ともうひとつ冠沓(笑い冠句)があって、両方合わせて十五とってもらえるのです。

 それから、歌の方で月の家をとり、天の巻をたくさんもらった者は、献題による一般投稿のほかに、同人制といいますか、自由な題材によって歌を詠み、それを投稿するという制度がありました。これには選がなくて、別扱いにし明光誌に載せます。この別扱いにして載せた歌の序列からいくと、最初に聖師さま、つぎに二代教主さまというように出口家の歌が載り、そのつぎには、必ず岡田茂吉さんの歌を載せているのです。これは当時の明光誌を見ればわかることで、つまり明光誌の同人としては、岡田さんは最高の地位におられたわけです。

 岡田さんがいつごろから歌の道にはいられたかは知りませんが、岡田さんの歌は基本が出来ていますし、いくら才能があるからといって、一年や二年であれだけうまい歌を作ることは出来ません。

 大体当時の一般信者から投稿されて来る歌は、いわば素人のもので、神様はありがたいといった信仰歌が大部分だったのですが、その中にあって岡田さんの歌は、自然観照詠のものばかりでした。

 この自然観照詠というものは、ある程度歌をマスターしないと詠めないものです。だから過去に何か、それだけの素養があったと見るのが至当です。どこで、どういう形で勉強されたかは判りませんが……。

 当時、岡田さんの歌で、非常に素直で童心的な歌にこんなのがありました。
 『口笛をふと吹き鳴らしわが年令を思いてやめぬ青葉の公園』というので、非常にいい歌なので憶えています。

 岡田さんの歌は、総じて素直で、暗さというものが全く感じられません。歌はその人の人格からにじみ出て来るものですから、やはりそういう人柄が、岡田さんにはあったと思います。