私が教祖にお会いしたのは、〝お光さん〟として世間が騒ぎ始めたころでした。昭和二十三年で、場所は熱海の清水町です。
その時、私は教祖に、「新聞を出されてはどうですか」という話をしました。若い時から新開発行ということに、非常な関心をもっていられるということも聞いていましたので、私の方からそう言ったのです。
そのころ私は、毎日新聞から読売新聞へ、そしてそれもやめて、自分で「政治新聞」というのを出していました。
すると教祖は、『まあ、よく考えておこう』と言われ、その時はそのまま帰って来ましたが、しばらくして、〝来てくれ〟というので行ってみますと、『ぜひ、新聞を出したい』と言われ、そして、『光』新聞が誕生したわけです。
私が教祖に会いたいと思ったのは、世間の評判で、お光さんという変わった教祖がいるということからで、特別な知識があったのじゃありませんが、初めてお会いしてみると、教祖は新聞などで書き立てているような人ではなく、なんでもよく知っているし、近代的感覚ももっている人だと思いました。
光新聞が出るようになってからは、始終出入りをしたわけですが、教祖はいつも悠然としたところをもっていられました。債鬼に追いかけられていたかもしれませんが、教祖というお人は、物事をすべて計画的に処理してゆく人ですから、負債があっても、われわれのように頭の毛を掻きむしって懊悩するというようなことはなかったでしょう。借金も計画的なら、それに追いかけられるのも計画的–といっては語弊がありますが、すべて計画の中の出来事として割切っていられたのではないでしょうか。そういうことのために、イライラするというようなところは見られませんでした。