疎開の名目で地方布教

 昭和十七年といえば、国民はみな、この太平洋戦争で日本は必ず勝つと信じていたし、いわゆる“勝った”“勝った”の大本営発表が、連日のようにラジオから流れてきて、国民の意気はいやが上にも挙っていたころです。

 そのころ明主様は、すでに、『いまに東京にススキが生える』(戦い破れて焦土となるの意味)とおっしゃっていました。

 そして、信者たちにしきりに疎開を勧められました。教師の人もつぎつぎと疎開して行きましたが、明主様のお考えは、そういう教師の疎開にかぎり、ただ単に、生命財産をまもるためというだけでなく、教師を地方に出して布教させるということだったのです。

 こうして、このころから地方布教は次第に盛んになり、これが五六七会の発展のはじまりと言ってもいいでしょう。