疎開しなかったM君

 明主様が東京にお住いになり、民間療法の名でお救いをされていた当時のことです。

 明主様は、たしか昭和十五、六年ごろから主なお弟子には東京が灰燼となるのをひそかに警告しておられましたが、その後十六年、太平洋戦が始まり、緒戦の華々しい大勝利の報道に国民が熱狂していたころには、大都市在住の信徒一般にも疎開の用意をするよう、しきりにお奨めになっていました。

 そして、お言葉のままただちに疎開して、戦火からも飢えからも守られて、新たな栄えを与えられた信徒も数多くありましたし、疎開のお言葉はいただかずとも御守護あつく、火焔のさ中から逃れたり、なんら戦火の被害を蒙らない大奇蹟も、枚挙にいとまないほどありましたが、中にはお言葉を軽視して、あたら救わるべき生命までも失った異例の人もありました。

 われわれが最も意外だったのは、当時の、いわば幹部級の地位にあった深川区のM君の惨事であります。
同君には“深川辺は最も危険性が多いから”と、再三早期疎開をお奨めになっておられましたが、かれのあいまいな返事には、お言葉に従おうとする熱意が欠けているのが見受けられました。

 私がかれと最後に遇ったのは強羅の旅館でしたから、明主様が箱根ご移居後の十九年七、八月であったでしょう。もちろん在京信徒の大部分は疎開を完了し、空襲もようやく本格的になったころでした。私はその時疎開先のことを尋ねましたが、「探してはいるが、適当な家がない」と答えるかれの恬然たる態度を解しかねたのを記憶しています。まだそのころまでなら、探せば家はあるはずだから、やはり真剣な疎開の意志はなかったのです。

 その後、下町一帯の大空襲がありましたが、信徒の奇蹟を通常事としていたわれわれは、さしてかれの安否を思いませんでしたが、いっこう姿をみせなくなったのを訝っているうちに行方不明の情報があり、熱海へ移ってから、田舎でただひとり生き残った長女が訪ねて来て、M君親子五名の焼死を確認したことを号泣とともに語り、茫然としているので慰める言葉もなかったのです。

 そして、M君の悲劇は、われわれに貴重な教訓を提供しました。すなわち、明主様のお言葉は絶対のものであり、ご指示への向背は、かくも大きい運命の相違を結集するからであります。

 いうまでもなく、かれが、もし明主様のお救いの言葉を素直に遵守したならば、このような目をおおう悲惨事に遇わなかったにちがいありません。かれがお言葉に従わなかったことは、お救いへの反逆であり、一家心中的自殺行為であったので、だれも怨みようもないのです。